3 月 31

 1969年の作品。これまた、ニコニコ動画に転がっている(レアだ!)。なんというか、こんなに甘酸っぱい極上の青春映画は滅多にないだろう。死体だらけだけれども。一度観ておいて損はない。カメラワークも抜群に素敵だ。もっとも、宮台真司のように「これを観て人生が変わった」と言い切るのはどうかと思うけれども。

 内容は残酷。しかし、映像・音楽・セリフは、つくづく、ため息が出るほど美しい。中村義則の同タイトルの詩にインスパイアされながら、若松監督は甘酸っぱい叙情詩を綴ったのだ。そう、これは詩だ。小説ではない。理解しようとしてはダメだ。身体と心をフィルムにまるごと預けるしかない(そんな体験が許されているのはとても幸せなことだ!)。寺山修司に代表されるような昭和日本の屈折した自意識を、ただただ詩的に味わいたい。

 青春時代。繊細な人ならば、一度はこのような感覚を持ったことがあるんじゃないか。人を殺したい。誰かに殺されたい。自殺したい。でも自殺する勇気はない。性欲が体を貫く。でも肉欲のあからさまな露呈に対しては嫌悪感を抱く。性欲がなにかとても大事なものを奪ってしまうかのような哀しさ。

 「二度目の処女」って、なんだろう。それはきっと、輪姦されてもまだ奪われていない、心の処女。血の中で求め合い、屋上から飛び降りて互いの「愛」を知る。映像としては出てこない、おそらく地上に飛び散ったであろう鮮血が、「二度目の処女」が奪われたことを示しているのだろう。その姿は、「二度目の処女」の意味を噛みしめながら、自分の脳裏に詩的に描くしかない。最後は、鑑賞者が、自分の心の一番繊細な部分(それがきっと「二度目の処女」)と向き合うことを余儀なくされるのだ。

 ”ただのセックスシーンでも、何だか冷ややかに見ていて、おそらく「ヌケ」ない。もの凄く、即物的な印象”とこちらのサイトに記されている。本当にそうだろうか。正直に告白すれば、自分はこの映画が描く無機質なエロスに、たまらなく欲情してしまった。ただただ、少年が羨ましかった。ゆけ、ゆけ、二度目の処女。

ゆけゆけ二度目の処女 
男が選んだ最高傑作 
ゆけゆけ二度目の処女 
遠回りでも明るい歩道を 
ゆけゆけ二度目の処女 
愛の喜び恋のニトログリセリンよ
ゆけゆけ二度目の処女 
あなたのマラソン長引かせる 
長引かせることのない空の部屋 
鶏ガラのように立ち上がる 
近親相姦の台所 
あなたの大きな下腹部 
あなたの自転車
ゆけゆけ二度目の処女 
あなたの大きな手のひらに 
黄色の夢となって乗りたい 
処女の泉のほうへ 
窓から窓から落ちてきた鳥を

82点

3 月 31

 2001年に製作された、おなじみのこの作品。ニコニコ動画にも転がっている。米国防総省に撮影協力してもらう見返りとして、米軍の不利になるいくつかのカットを削除したという経緯も含めて、「アメリカ軍のプロパガンダ映画だ!」と一部で糾弾されているようだけれども、自分は比較的評価している。

 まず、この映画は9割近く戦闘シーンで占められているため、戦闘シーン(「アクション」)のリアリティが評価を大きく左右する。アクションシーンの面白さについては、文句なし。ブラックホーク・ダウンの戦闘シーンには、かなり人を惹きつけるものがある。では、「ドラマ」(物語筋)についてはどうだろう。この映画で描かれているドラマのプロットを一言で要約すれば、「戦場で一緒に戦っている仲間を見捨てることはできない。だから戦うんだ」ということになる。もしこの映画が誰かに感傷を与えるとすれば、「仲間意識」に関するものだろう。では、「仲間を見捨てることができない」という気持ちを米軍側の視点から一方的に描くと、「プロパガンダ」になってしまうのだろうか?何気なく検索をかけていたら、2chにこのような書き込みを見つけた。

77 :専守防衛さん :02/12/07 22:43
 ああいう状況に追い込まれればだれでも仲間意識は発揮すると思うよ。日本じゃ実戦を経験している人は居ないけれど、災害時などは命令が無くてもどこからともなく集まってきたりするし、レインジャーやデルタが訓練で能力を磨いているとしてもそれは兵士としての戦闘能力であって人間としての性格は万国共通だと思う。この映画で余りよく描かれていないソマリアの人たちだって兵士個人のレベルではやはり仲間や家族のために戦っているんだよね。 (参照

 これは説得力がある意見じゃないだろうか。戦場で兵士たちのモチベーションを維持させる理由にはいくつかの階層性が存在するのだろう。おおざっぱに考えれば、

レベル1:身近に衣食住や訓練をともにしてきた(同じ部隊に所属する)仲間たちのため
レベル2:同胞・国のため
レベル3:正義などの大義名分のため

とでも言えるだろうか。本作品の描写のメインはアクションシーンだったのだから、「ドラマ」に関して、レベル1の「仲間意識」のみを(米軍側の見方から)一面的にしか扱えないとしても、仕方ない気がするのだ。そもそも仲間意識とは、一方的なものなのだから。

 あるひとつの物事(出来事)は、さまざまなレベルから語ることができる。たとえば、目の前にガラスで出来たコップが置いてあるとする。そのコップについて2人で語り合うとする。このとき、コップのデザインについて語ることも、コップの物理学的構造について語ることもできる。わたしたちがコップのデザインについて語るときの言語レベルと、コップの分子構造を物理学的に語るときの言語レベルは、異なっている。しかし、どちらか一方の語り方が正しいということはなく、両者は共存できる(ともに正しい)。大事なのは、語りのレベルを一致させることだ。もし相手がデザインについて語っているならば、わたしもデザインについて語らねばならない。「このコップのデザインは美しいよね?」という問いかけに対して、「そもそもガラスはケイ酸塩で構成されていて…」と応じるならば、会話が無意味なものになってしまう。逆に、もし科学者がコップの分子構造について語っているならば、わたしも分子構造のレベルで返事をしなければならない。

 つまり、レベル1として描かれた仲間意識の物語に対して、レベル3の観点から「プロパガンダだ!」と批判するのは、なにか違う気がするのだ。

 結論。この映画は(レベル3の「大義名分」という意味において)「戦争は正義だ」「米軍だけが正義を体現している」などと語ってはいない(と自分は感じた)。あくまで戦闘シーンがメインな映画だ。そして、戦闘シーンでは、レベル1の「仲間意識」が一方的な形で作動したとしても、非難はできない(誰も仲間が死ぬ姿を見たくない)。だから、「プロパガンダだ!」という批判は妥当なものではないと思う。

 とはいえ、人間の精神の奥深さに触れる描写は一切出てこないため、「めちゃくちゃ面白い映画だ!」というわけにはいかない。あくまでアクション映画だ。アクション性とドラマ性を高い次元で両立させた『戦争のはらわた』などに比べると、評価は大きく劣ってしまう。また、「ソマリア民兵の描き方がいくらなんでもナイーブすぎるよね!」という感想を少なからず抱いてしまう。よって、次の点数を付けたい。

71点

3 月 30

 1994年の作品。ちなみにニコニコにもある。この映画の良い点からいえば、まず、ケヴィン・ベーコンの演技は文句なく素晴らしい。また、かつてアルカトラズ刑務所にて行われていた非人道的な虐待行為を風化させないためのリマインダーとして働く効果がこの映画にはある。

 しかし、史実とはかなり異なった脚本が描かれている点が大幅マイナス。主人公のヘンリー・ヤングは実際には以前から殺人等を犯していたのであって、「妹のために5ドル盗んだだけなのに…」云々は全くのファンタジーに過ぎない。もちろん、映画は物語を描くものだから、脚本が実際の史実に基づいていなくともまったく構わない。だが、純粋なファンタジーとしてみたとき、この映画のストーリーラインはお粗末だといわざるをえない。

 ヘンリー・ヤングがひたすら「虐げられる者=弱者」として描かれている点が痛すぎる。これは多くのハリウッド映画に共通する欠点なのだけれども、なぜ<正義の側に立つ者/卑劣な悪者>という二分法でストーリーを作ってしまうのだろう。人間はそもそも、心の内部に、善も悪も、混沌も正義も、利他心も利己心も、すべての矛盾するものを抱えてドロドロしている存在なのであって、<正義の側に立つ者/卑劣な悪者>という二分法をスパッとやられると、シラけてしまわざるをえない。綺麗な二分法が成立していると、「それはどこのユートピアのおとぎ話だよ」と苦笑してしまうし、感情移入ができないのだ。

 アルカトラズ刑務所の虐待をダシに使うな、と言いたい。もし本気でアルカトラズ刑務所の世界を描きたいならば、もっと混沌とした人間の心理をきちっと描写して欲しかった。刑務所の所長や副所長は本当にただの「悪人」だったのか?なぜ彼らは受刑者を虐待したのか?彼らに虐待を促したその「残酷さ」を、今を生きるわたしたちも抱えているのではないか?そのような(皆が抱えている)人間の暗部を、彼岸のものではなく此岸のものとして、すべて平等にさらけ出して欲しかった。悪者仕立て=スケープゴートにして「はいおしまい」、とするのではなく。よって、映画としての評価には厳しい点数を付けたい。感動など決して出来ない。というか、この作品に感動してはいけない。

58点

3 月 29

 1977年の作品。これもニコニコ動画に転がっている。文句なしに大傑作の戦争映画といえるだろう。複雑な心情描写、リアリティのある戦闘シーン、そしてサム・ヘキンパーお得意の斬新な編集技術。3者が見事に協奏して映画を織り上げている。多くのハリウッド映画では決してなしえない、ドラマとアクションの奇跡的な両立。おそらく戦争映画史上3本の指に入るのではないか。

 注目したいのは、ラスト近辺のシーンだ。シュタイナー伍長(ジェームス・コバーン)は自分の小隊を裏切った兵士をひとまずぶち殺し、続いてシュトランスキー大尉も殺すかと思いきや、そうはしなかった。この絶妙なバランス感覚が、本作品を象徴している。もしシュタイナー伍長が裏切った兵士を殺害することを思いとどまったならば、「人命の尊さを訴えかける」という道徳心を慰撫する安っぽいハリウッド・ドラマ仕立てのエンディングになってしまっただろう。しかし同時に、もしシュタイナー伍長がシュトランスキー大尉を殺してしまったならば、「暴力が連鎖する救いのない現場としての戦争」というこれまた安っぽいエンディングになってしまったはずだ。

 暴力は時に連鎖するし、連鎖が途切れるときもある。裏切り者の下っ端の兵士がひとまずぶち殺されることによって人々はカタルシスを得る。続いて、暴力の連鎖が途切れた最後のシーンに、人々は胸を打たれ、「かっこいい」「名シーンだ」と感想を漏らす。しかし、サム・ヘキンパーは、笑い声を被せることによって人々の「感動」すらもあざ笑ってしまう。

 いかなる意味においても、戦場に「感動の物語」など存在しない。また同時に、「戦争はただ絶望的なものだ」というわけでもない。戦場すらひとつの「社会」なのだから、そこには、ときに暴力的でときに理性的な、気まぐれな人間の振るまいが存在するにすぎない。これは、美談と絶望の両者を抱えて「生きる」人間の姿を生々しく描いた映画なのだ。

 戦場は特別な場所じゃない。自分が生きている身近な社会に「シュタイナー伍長」や「シュトランスキー大尉」が潜んでいることは、誰もが認めるところだろう。しかし、戦場では人が死ぬ。圧倒的に、肉体としての人間が内蔵や「はらわた」を飛び散らせて死んでいく。その現実は、美しいとすらいえる戦闘シーンとして、見事に表現されている。

 それにしても、これほどまでに鳥肌の立つエンディング・ロールは観たことがない。音楽も素晴らしい。最後の一滴まで「はらわた」をじっくりと味わうべし。名作。

90点

3 月 29

 この映画はニコニコ動画にも転がっているが、絶対に観た方が良い。命を賭けてオススメできる。

 それにしても、あまりに強烈な映画だ。「ドキュメンタリー」であるからこそ、人々はこの映画に打ちのめされる。戦時中、空腹に飢えかねた日本軍の兵士が下っ端の兵士を撃ち殺して人肉を喰らい命を繋いでいたという事実を、人肉を食した当事者がカメラの前ではじめて告白する場面――その緊迫感――は筆舌に尽くしがたい。この映画で一番「リアル」なものは、過去の罪を告白するか否かをめぐって責任を追及される登場人物たちの生々しい表情、狡さ、怒り、諦念などだ。これほどまでにリアルな駆け引きをおさめた映像は、滅多に存在しないだろう。告白者たちの表情がこの映画で一番印象に残っている。しかし、この映画は本当に事実をありのままにおさめた「ドキュメンタリー」なのだろうか?

 かつて蓮見重彦は、アッバス・キアロスタミの映画を評してこう述べた。「キアロスタミの映画は素朴な魅力にあふれているわけではない。(中略)子供の表情の驚くべき自然さを指摘する余裕があったら、その自然さを虚構としてキャメラで切り取って見せるというその演出の残酷さを想像してみるべきである」。どうやら、この映画もかなり「残酷」なものであったようだ。「奥崎謙三 神軍戦線異状なし」というブログに、いくつかの裏話が紹介されている。

 原によると「ゆきゆきて神軍」の人肉食やデッチあげ処刑の真相追及する件も、最初は奥崎はあまり乗り気ではなかったらしい。兎に角、自分のことを格好良く撮ってくれと、そういう態度がアリアリと感じられたそうだ。映画を利用して何かをやりかがっていたのは確かだ。最初は処刑事件の真相を追及するために、相手宅に行っても、奥崎が逃げるような言葉を与えてしまうので原は困り果てていた。(中略)そんな恥部を見せずに、「ゆきゆきて神軍」を反戦ドキュメンタリーに仕立てた原一男の編集技術は神業と言えよう。(参照

 奥崎自身も「ゆきゆきて神軍」のことをこういっている。「自分の生き方を認められる内容の映画を希望したが、原監督は戦争被害の実情を報告するドキュメンタリー映画を作りたかったようだ。そのため、私は被写体となることを二度三度やめようとしました」(参照

 奥崎に会いに来た人々は、天皇制への怨嗟を奥崎が吐露することを聞くことが目当てであるが、奥崎は「理想社会」の話を取り憑かれたかのように延々と続けるので、呆れて帰ってしまうらしいのである。奥崎も「この間も有名らしい人が来て私にいいましたよ。元兵士としての奥崎謙三は理解することを努力するが、理想社会だの世界の真理だのという奥崎は理解できない。私は別に理解されなくても構いませんがね」(中略)

 皇居パチンコ事件が起きたのが昭和四〇年代。この時期は反戦運動が盛んだった時期である。運動を盛り上げる材料として、奥崎は体よく作られた偶像に過ぎず、大衆は自己の都合の良いように奥崎という帰還兵を反戦のシンボルとして崇めていたに他ならない。つまり、調子よく踊らされていたのだ。(参照

 つまり、このドキュメンタリーに描かれている「戦争責任の追及という正義を追い求める暴力的な狂犬としての奥崎謙三」という姿は、かなりの程度作られた虚構であったということだ。手塚治虫はこの映画に登場する奥崎に対して「告発の姿勢がかなりカメラを意識して演技的に見える」と評したそうだが、なんのことはない、そもそも奥崎は「告発それ自体(戦争責任の追求)」を追い求めていたわけではないのだ。虚構を事実に偽装する、「ドキュメンタリー」と称される手法のぞっとするほどの残酷さ、それ自体がこの映画の醍醐味なのである。

 とはいえ、戦時下では相当数の兵士が人肉を喰らっていたし、時には味方の兵士を撃ち殺して食べていたという衝撃的な事実が、生々しい肉声とともに告白される場面をおさめた映像のリアリティは凄いし、なによりも、わたしたちはこの歴史的事実を真正面から凝視しなければならない。作られた虚構としての「戦争責任追及者・奥崎謙三」は、わたしたちの「戦争のはらわた」に対する凝視を引き出す、原一男監督がこしらえた超一流の装置だったのである。あらゆる意味で、凄まじい作品だ。日本人なら全員観るべきだ。

95点

3 月 29

 圧倒されてしまって言葉が出てこないので、再度観てレビューしようと思う。人物関係が錯綜していておおまかなあらすじすらきちんと追えなかった。それにしても、音楽が素晴らしいね。ジジェクのこの映画に対する解説はこちら。でも、ジジェク的ではない見方を紡ぎ上げなければならないと思う。

81点

3 月 29

 もともと『少女椿』は街頭で演じられていた紙芝居であって、その紙芝居を丸尾末広がマンガ化し、さらにそれを監督・原田浩がアニメ化したものがこの作品だそうな。詳しい解説はここらへん

 こんなに強度を持ったアニメがあるんだな、というのが率直な感想。日常と幻想、純潔と性的倒錯、地上と地下、秩序と混沌、正常と奇形、両者の世界を主人公の少女みどりは境界線を意識させない形でめくるめくように往来していく。端的で無駄のない構成、そしてJ・A・シーザーの隙のない音楽。非の打ち所がない。もしかしたら「難解だ」と感じるかもしれないけれど、むしろこれは「心の襞の奥行きそのものを確かめに行く探検アニメだ」と考えたらどうだろう。50分程度の作品。学校教育でこれを道徳か倫理の授業時間に生徒に見せて、それをもとに皆で語り合うことができるような社会であって欲しいなぁ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2062356

90点

3 月 29

 映画全体の物語筋はハリウッド臭くてイマイチなんだけど、やはり冒頭の戦闘シーンの映像と音響が圧倒的だと思う。戦争の肉体的な恐怖をここまで体感できる映画はないのでは?つまり、頭で理解する戦争、胸を痛める悲惨な物語としての戦争ではなく、びゅんびゅん飛び交う銃弾や砲弾に恐怖し手に汗を握り、人命が虫けらみたいに海の藻屑と消え、内蔵がぶちゅぶちゅ飛び出してしまうような、そんな【戦慄的な身体感覚としての戦争】をまざまざと体験させてくれる点が素晴らしい。自分が次の瞬間には肉の塊になっているかもしれないという戦争の現実を味わせてくれる作品。大金を投じなければ、このリアル感は表現できない。

75点

3 月 29

 ナボコフの小説も良いけれど、キューブリックが撮った映画版も素晴らしい。ロリータの女優が可愛い過ぎる。これはやばいね。それだけで観る価値がある。彼女に誘惑されたら全人生を投げ打って追いかけると思う。でも、彼女はどう見ても10代後半で、18歳前後といえば万人にとってストライクゾーンな恋愛対象になるわけで、だから、この映画では、ロリコン独特の奇特な世界が描かれていないとはいえる。その点は残念。つまり、ナボコフの小説は別にして、キューブリック独自が描いた世界観としてみれば、この映画は評価できると感じる。

85点

3 月 29

 1987年。戦争を誇張的に滑稽に描いた映画。だけれども、「それでも戦争はそういうものだし、そういう風に続いてゆく」というキューブリック監督の諦念が滲んでいて、その点が好き。思うに、反戦は真正面から唱えちゃダメなんだよ。スタイリッシュな反戦運動こそが組織されるべき時代だと思う。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2610757

78点



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