まぼろしの市街戦 / フィリップ・ド・ブロカ

 1966年のフランス映画。ニコニコ動画へのリンク作品解説。カルト映画としての人気も根強いが、この作品が「カルト」と呼ばれるならば、「カルト」とはなんと創造性に充ち満ちたジャンルなのだろう、とため息をつくしかない。もうこれは本当に戦慄すべき幻想文学的な戦争映画。

 第一次世界大戦末期、1918年10月、ドイツ軍は敗走していた。これは、解放を待つ北フランスの寒村でのできごとである。イギリス軍に追撃されたドイツ軍は、その田舎町から撤退する際に、いやがらせとして大型の時限爆弾を仕掛けていった。誰が町に潜入し、爆弾の時限装置の解除をするか。たまたまフランス語が出来るというだけの理由で通信兵(伝書鳩の飼育係)のプランビック二等兵がその命令を受ける。町に侵入したプランピックは、残留していたドイツ兵とはちわせをして精神病院に逃げ込む。そこでプランビックは「ハートのキング」と自称したことから、患者たちの王にまつりあげられる。

 町の人々が逃亡し、ドイツ兵が撤退して、もぬけのからになった町。患者たちはその町に繰り出し、思い思いの役を演じる。司祭を選ぶ者、軍人を選ぶ者、貴族を選ぶ者、娼館を営む者。戦争の跡が色濃く残る町の中で、リアリティのない奇妙な日常生活(の・ようなもの)がはじめられる。プランビックはその奇妙な日常生活に取り込まれていく。イギリス軍が町に進軍してくる。戻ってきたドイツ軍との間に白兵戦が行われ、双方が全滅。そして、さらに遅れてきたイギリス軍の本隊が町にはいろうとするところで、患者たちは、病院に戻るという決断をする。プランピックは、次の任務に向かう途中に逃亡兵となり、軍服を脱ぎ捨てて、素っ裸になって病院の門を叩く。精神病院の中と外とどちらが狂気に支配されているのか、という問いをつきつけて物語りは終わる。(参照

というあらすじ。戦争という現実世界に生きるよりは精神病的な幻想世界に生きる方がまだマシだということを描いた映画、つまり戦争を皮肉った喜劇的な反戦カルト映画、という見方が一番オーソドックスなのだろう。だが本当にそうなのだろうか?もし戦争が終結したとしても、やはり、観客である私は精神病院の門を叩きたくなってしまうのではないだろうか?

 現実世界で自分がコントロールできることなどたかが知れている。現実世界は、得体の知れない他者性に満ち溢れていて、人間はいつもいつも翻弄され続ける。どれだけ理想的な社会が実現したとしても、なお、人間は満たされない残余を抱えつづける。そのような残余を抱えたまま、現実世界で「私が私であること」を保とうとすれば、何らかの形で幻想世界を自らの内部に巣くわせるしかない。妄想族になるしかない。想像力豊かな物語の網を張り巡らせるしかない。「生きる」、ってそういうことだ。この映画は、人間が「生きる」様そのものを描いた映画といえるのではないだろうか?戦争は、あくまで、現実世界に立ち現れるアンコントローラブルな他者性を象徴する媒介項にすぎないのではないだろうか?人間は、食べ物と同じくらい幻想を必要としているのだ。ちなみに、わたしたちの普段の生活では、「愛」というものが一番利用しやすい幻想だといえるだろう。

 もっとも、幻想世界に長く浸ることは許されない。熱狂ののちに、諦念のような瞬間が訪れ、ふと醒めて、わたしたちはまた現実世界へ引き戻されてゆく。そろそろ宴は終わりだ、止めにしよう、というひらめきがやってくる。そのときの寂しさといったらない!夏が終わり、秋がやってくるような寂しさ。つまり、映画で描かれていたこの台詞が突きつけてくる、突如ぽっかりと穴が空く、思わずきょとんとしてしまうリアリティだ。

「たっぷり遊んだから帰ろう」
「王様も自分の世界に戻りな」

 とにかく、主人公の男が幻想の内部で心惹かれた女性(コロンバイン役:ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド)の美しさは必見だ。またひとつ、映画という幻想の内部に登場した女性に、つかの間の恋をしてしまった。強烈におすすめな映画です。

93点

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