3 月 29

 1987年。戦争を誇張的に滑稽に描いた映画。だけれども、「それでも戦争はそういうものだし、そういう風に続いてゆく」というキューブリック監督の諦念が滲んでいて、その点が好き。思うに、反戦は真正面から唱えちゃダメなんだよ。スタイリッシュな反戦運動こそが組織されるべき時代だと思う。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2610757

78点

3 月 29

 1964年。 米ソ冷戦時代にキューブリックが作った素晴らしきブラック・コメディ。もう、ラストシーンの美しさと、美しければ美しいほど皮肉になるというトリックが、愉快で素敵すぎる。最高。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1067422

95点

3 月 29

 1980年。「終電車」というタイトルは、ナチス占領下のフランスで、夜間外出禁止令が下されていたため人々は「終電車」に殺到した、というところから付けられている。もうね、これも本当に圧倒的な作品で、ある意味トリュフォーのNo1作品と言って良いかもしれない。3つだけ。一つ、歳を重ねてもあくまで美しいカトリーヌ・ドヌーブ。美しさといっても、「圧倒的な存在感の宿った美しさ」がドヌーブの特徴。アイドルの美しさとは根本的に違う。もうただ、自分が捉えられてしまう。ロックオンされてしまう。二つ、設定の巧みさが、極めて深い陰影を映画全体に与えていること。ドヌーブと、演劇の舞台上で恋人役を演じる若い男優、および(ユダヤ人のため)その舞台の地下に身を潜める演出家である夫。どちらにもドヌーブは惹かれている。揺れ動く。その力学が凄い。どちらに対しても、完全に恋心が満たされることがない。<現実/演劇>および<地上/地下>という二つの境界線が、ブレーキになっている。その境界線は互いに影響を与えながら、揺らぎ、ドヌーブの美しさの存在感はさらに増してゆく。
 
 ラストシーンの撮り方も、映画史上に残るものといえるだろう。もうご覧になった方には注意して観て欲しいのだが、はじめは病院が現実のものとして撮られている(背景に見える向かいのビルで実際に人が煙草を吸っている)が、ワンカットの切り返しで、その背景が舞台上の描かれた大道具にすり替わっている。映画だからこそできるウルトラCの演出法だが、これは、<現実/演劇>の境界線のあいまいさを、トリュフォー自身が巧みに描いたものとして再解釈できるのではないだろうか。戦争もきちっと描かれている。文句なし。圧倒的名作。

94点

3 月 29

 1957年。フェリーニの中ではおそらく一番観やすい映画。主演女優かつフェリーニの妻である、ジュリエッタ・マシーナの演技に尽きる。が、本当に、フェリーニのキリスト教に対するまなざしに感嘆させられる。というよりも、自分のキリスト教に対する理解は、フェリーニに負うところが大きい。この映画に関しては3つ。一つ、マリア様の慈悲が、救いなんだけれども狂気として描かれていて、この狂気が全体のトーンを支配しているからこそ、ラストシーンが際立つ。二つ、ラストシーンにおけるジュリエッタ・マシーナの顔演技。この顔演技は今まで観てきた映画の中でも5本指に入る。彼女があえて「カメラをのぞき込む(観客に視線を移す)」のにはドキっとした。あのおかげで、彼女の存在が、映画を観ている自分自身に接続された気がしたのだ。三つ、人間は、他者を求め、他者に裏切られ、絶望に陥り、他者の笑顔にまた自分も笑顔する。悟りの境地など要らないのだ。泣いて苦しんで笑って踊って、永遠にぐるぐる回り続けるからこそ、人生に陰影が生まれるのだ。

92点

3 月 29

 1966年。もうこれは文句のつけようがないミュージカル映画。よってコメントなし。ドヌーブも相変わらず凄まじく美しい。鑑賞後、史上最強にハッピーになる映画。これを観ないのはただの馬鹿、ってか勿体ない‥ ひとつだけ言うならば、冒頭で、みんなが踊っている広場をパンフォーカスしている状態から、徐々にマンションの一室へとカメラがズームインするシーン。痺れた。コテコテでベタなストーリーを、これだけ華麗に、かつ幸せ感充ち満ちて撮れるのはすごい。街角の踊りは、軽やかに出会って、離れて、異なる人と重なって、またどこかで出会うものだ。カメラワークが、その交差のさまを過剰なまでに表象している。人がたまたま交差して、別れて、またどこかで出会う。カメラは途切れることなく、軽やかに、まるでミュージカルのダンス・ステップのように、追う対象を切り替えてゆく。街角だからこそすれちがう、すれちがうからこそ高まる恋のドキドキと切なさ。ああ、幸せだ。

95点

3 月 29

 2001年。フランスの巨匠ガレル監督の本作は、「P・ガレル監督自身が、60年代末に運命的な出会いを果たしたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌姫・ニコとの愛の日々をモノクローム映像で綴る」という自叙伝的な映画。とにかく仕掛けが凄い。まずこの映画は、「映画を撮る男女」を描いている。つまりこの映画の中に、映画の主人公たちが撮るもうひとつの映画が混入する。この映画の主人公は、ヘロイン根絶を訴える映画を撮ろうとする。彼は街角で出会った女性と恋に落ち、彼女をヒロイン役として映画を撮りはじめる。なぜ監督役の主人公がヘロイン根絶を訴える映画を撮ろうと思ったのかといえば、彼が昔付き合っていた女性が、かつてヘロインで死の世界に落ちていったからだった。つまり、ガレル監督は(この映画の中の)監督役の主人公に自分を託しているのだが、それと同時に、主人公本人が、現在のガレル監督の立ち位置になっているのだ。
 
 また、映画の中では、結局、ヘロイン根絶を訴える映画でヒロインを演じている女性が、実際にヘロインに手を染めて皮肉な結末を迎える。ここにガレル監督の身を切るような「ヘロインに対する恨みと畏怖」を見た。つまり、ヘロイン根絶を訴える映画を撮っている人間がヘロインに負けるという皮肉な結末を描くことによって、破滅と恍惚が表裏一体となったヘロインの魔力を、まざまざと観客に見せつけるのだ。主人公の監督役は現在のガレル監督の立ち位置であるのだが、彼がヘロインに恋人=ヒロインを奪われるを描くことによって、逆にガレル監督のヘロインに対する切なる執念を見せつける結果となった。まずは現実と虚構を巧みに操作して鮮やかにメッセージを伝えるその手法に拍手を贈りたい。でも、その巧みな操作が緻密であるがゆえに、逆に、ガレル監督の若かりし日々への複雑な想いと執念が滲み出ていて、思わず言葉を無くしてしまうのだ。とにかく観てください。

82点

3 月 29

 1964年。典型的な不倫モノ。「文芸雑誌の編集長にして評論家でもあるピエール・ラシュネーは、リスボンへの講演に赴く飛行機の中で、若く美しい客室乗務員ニコルと出会う。二人は異国の地ですぐに恋に堕ちた。やがて妻子のあるピエールは、ニコルとの新しい生活を夢見るようになるが、彼女はそれを拒絶する。ピエールは孤独になって妻フランカに謝罪の電話をするが、すれ違うように不貞を知った彼女は、猟銃を手にして彼の元へ向かう…」というあらすじ。自分は男なので、過去の記憶等々と重ね合わせつつ、むず痒くてしょうがなかった。「快作」といった趣のシンプルな映画だが、ライトのon/offであらわされる陰影の巧みさはため息モノ。光が語る。そして何といってもフランソワーズ・ドルレアックの美しさに尽きる。彼女はカトリーヌ・ドヌーブの実姉であり、25歳で交通事故のため他界した。
 
 西欧系の顔立ちがあまり好きではないのもあって、映画女優に恋することは滅多にない。だが、フランソワーズ・ドルレアックと、彼女の妹であるカトリーヌ・ドヌーブにだけは、すべてを捨ててのめり込みそうになる。画面を突き破って映像世界に侵入したいという衝動に駆られる。自分が「シネマ・スター」に憧れたのは、この姉妹にだけ。二人が競演したのがミュージカル映画『ロシュフォールの恋人たち』なのだが、ずっと観ずに敢えてとってあるというこの回りくどさ。それくらいこの姉妹はオススメ。はぁ‥

81点

3 月 29

 1970年。イタリアの巨匠、デ・シーカの想いが詰まった、語るのが馬鹿らしくなるほどの名作中の名作。戦後、ロシアでロケされた世界初の映画。究極の戦争映画にして、究極の恋愛映画。それにしても、デ・シーカの力量には驚かされる。焼夷弾が湖畔の静かな夜明け空を軽やかに舞う。なんと美しいことか、そして美しさが、どれだけの残酷さを刻みつけていることか。
 
 個人的に一番好きなシーンは、ソフィア・ローレンがマストロヤンニを探してロシアを電車で移動中に、ひまわり畑が揺れるシーン。あのカメラワークには鳥肌を通り越して胸が詰まりそうになった。デ・シーカの描く、リアリスティックかつ穏やかな諦念が滲み出た空間に、過去の――愛・諦め・切断・持続にまつわる――記憶が溶け出していくのを感じた。

97点

3 月 29

 1972年。「処女」の扱い方に度肝を抜かれた。思想的にいえば、処女は必ず、妄想のふくらみと現実による貫通=出血を伴う。キリスト教的背景が強ければ強いほど、処女性は人間のターニングポイントを担う決定的な契機となる。一夜が過ぎて、真っ赤に染まったシーツ。初夜は心の空隙を満たす=襲うものであったのだが、同時に、長年想い抱いてきた恋の精算を行うことでもあったのだ。あなたに抱かれてはじめて、あなたに長らく抱き続けた失明するほどの想いは流れ出たのだ。真っ赤な血となって。そして彼女は一人で歩き出す。

91点

3 月 29

 2005年の作品。打算や狡さや諦めに囲われているからこそ、愛は甘美になる。ごまかしの無い愛なんて、ひたすら残酷で痛くて目を覆うしかない。その「痛みを抱えて生きる」さまを象徴的に描いた映画。
 
 性/愛は与えるものであると同時に、「惜しみなく奪う」もの((C)有島武郎)。だから愛は痛い。ひたすら痛い。人間の痛みが全面的に滲み出る。男から女、女から男への愛。はたまた、親から子、子から親への愛。友人から友人への愛。すべて、何か与えると同時に、何かを奪い去ってしまう。自分の中からも何かが損なわれてゆく。愛の痛みが連鎖したとき、言葉も失うような事態が進行する。ラストシーンがあまりに素敵で、涙を流した。愛の痛みの連鎖によって、もう取り返しのつかないところまで来てしまった、父と娘。沼地にはまり、アクセルを踏んでも進まない、娘の運転する車。父は、自らの愛の爪痕を償うために、先へ先へと進んでゆく。わたしたちが失いゆく誰かを追いかけるとき、おそらく、アクセルを踏み続けるけれども前進しない車なのだろう。エンジンの煙だけがもうもうと舞い上がる。アクセルを離せば静寂が訪れる。鳥肌が立った。

87点



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