3 月 29

 本当にこれを映画の最高の教科書といわずして、何と言おう。身の引き締まったストーリー展開の中に、剃刀のようなぞくっとくるカットが散りばめられている。特にハリー(オーソン・ウェルズ)が正体をあらわす際の演出ときたら!ラストシーンの男の渋い暖かさも見事な演出だ。

96点

3 月 29

 たしかに傑作だ。「その瓶は何だい?」「嘘をついた男にかけるための硝酸よ」ってのもなかなかだ。でも、何かジャンヌ・モローをとりまく空気が痛々しかった。この感じた痛みは何なのだろう。自分がこういう女とばっかつきあっているからなのか‥

90点

3 月 29

 今年のFILMEX、朝日ホールにて。監督自らのティーチ・イン付き。クルド地区の、圧倒的な「地雷」感覚に打ちのめされた。地雷に囲まれて生きる、音感覚と精神感覚。監督の他作品もチェックしてみたい。

83点

3 月 29

 アンナ・カリーナ、可愛い。惚れそう。それに尽きる。ってかジャン・ポール・ベルモンドはやっぱ好きな俳優だ。横顔が堪らない。男なのに。

90点

3 月 29

 同オムニバス企画の『イデアの森』と比較すると、時間への考察が浅い分だけつまらない。ただし最後のチェン・カイコー作品は出色の出来。時間の経過によって、過去に生きる人々、彼らの想像力が排除されてしまうというお話。切ない。その人にとっての想像上の世界をみるとき、その人の過去から連続して続いているライフストーリーもみなきゃダメなんだよな。

78点

3 月 29

 もうこれは圧倒的な作品。新たな才能を発見してしまった。ドリアンの視覚的感覚、想像上の嗅覚的感覚(くさい匂い)を核として、主人公が、香港と、雪降る北の中国の間で揺れる軸。娼婦と、過去の青春の間に揺れる軸。一人と、人に囲まれて生きているということに揺れる軸。そして脳裏には常にドリアンのあの奇異な外観と匂いが。監督の香港3部作は絶対チェックせねば。

85点

3 月 29

  見終わった後にきゅっと恋人の手を握りたくなる映画。これに尽きる。もっとも、なぜそこまでセックス描写を織り交ぜるのかは謎。メルヘン過ぎる世界に、ある程度の汚さを織り込みたかったのか、あるいは、セックス自体をメルヘンに描きたかったのか。ともあれ、監督の頭の中にある世界を、映画という手段(メディア媒体)を使って表現した映画だ。実に「非現実的」な映画。アニメ的な映画。パリの町並みはパリの町並みではなく、パリの町並み的なもの(監督の頭の中にあるイメージの再現)となっている。だからこそ人は現実を忘れて、幸せな世界に浸ることができる。これは良い面だ。一方、非現実的だからこそ、実際画面に映っている場所から外へ、空間・意味はあまり拡がっていかない。現実に対してひらかれた映画ではないので、映画の中で世界が完結してしまっている。それは映画の可能性を狭めていることでもあるけれど、もちろん、それはそれで見事であり、素晴らしく、しばらく幸せ感に溢れた。(’02 2/23)

78点

3 月 29

  キャメラワークの繊細さに降参。木にとまっている小鳥と、その向こうに在る空を、地上から見上げるように映す。どちらかに焦点を絞っているのではない。両方を対等に映している。そこには、小鳥の生命と、小鳥を生かしている神の存在が、同時に映しこまれている。かなたの空に、さやかには見えねども、神の存在が透けて見える。ディープ・フォーカスと長回しによって為せる業だ。背景も含めてすべてに焦点をあわせることで、すなわちあらかじめ意味を与えずに空間を提示することで、空間の意味が複数化する。観客の見方にゆだねられることになる。この映画で一番印象的だったのは空だ。この映画に映る空には、神がいると思えてならない。現実の空をキャメラは映しているのだが、画面の中の空は神聖味を帯びている。実際画面に映っているものだけではなく、その奥へ、空間・意味が拡がっていく映画。つまり、この映画は、空間を押し拡げていく、枠組みを突き破っていくものとしての映画だ。CGなどは一切ないこの時代。ただキャメラワークによって、それを見事に表現したこの映画に、興奮せざるをえなかった。(’02 2/23)

84点

3 月 29

  台詞の全くない映画。とはいえ、サイレント映画ではない。風の音、砂の音、鉄道の音、子供の泣き声、叫び声…それらの「音」は効果的に配置されている。しかし、台詞がない=字幕が一つも出ないという特質は見落とせない。ワンショットが実に絵画的だ。あるいは、芸術写真的だといってもいいかもしれない。しかし、扱っているテーマは抽象的なものではない。季節労働者として働く子供の、絆、愛の力強さだ。その力強さは、子供のまなざし、あるいは叫び声の強度によって表わされるだけである。だが、それだけだからこそ、そのまなざし、叫び声の鋭さといったら。神がかり的な雰囲気まで漂わせている。「言語」としての音声をすべて削ぎ落とし、ただデシベル(音)として響く音声にすべてを任せたことで、音自体が持つ本来の衝撃が「剥き出しのままそこに在る」という感覚だ。さらにいえば、観客の注意を惹きつける「言語」が介在しないため、映像ですら「剥き出しのままそこに在る」。自然の中に人間が見出す(創り上げる)「自然の」美しさ、まなざし、叫び声、風の音、砂あらし、雨が持つ強さ。それらがとにかく美しく絡み合い、それらシャワーの中で、観る者は至福の時を過ごす。まさに「映像詩」で、詩であるからこそ、何度でも観たいと強烈に思わせる異色の作品だ。(’02 2/23)

88点

3 月 29

  パルムドール受賞のこの作品。FILMEXで幸い観ることができた。多くの人が言いそうなことだが、とりあえずこの映画は、変に感傷的過ぎないのが良い。涙を狙いすぎないのが良い。だから自然と観客の涙は零れ落ちる。興味深いことに、やはり子供を持つ親のほうが、この映画に豊かな感情を喚起されるようだ。印象的な台詞。息子の死に関して夫と妻の会話。「もう後戻りはできないのよ」「その後戻りがしたいんだよ!」精神分析医という、人間の理性的側面を象徴するかのようなクールな大人が、まるで子供がダダをこねるかのようにわがまま(心の奥から湧き出る素直な叫び)を発することで、息子の死という出来事の衝撃が、鮮やかに観客の心に響き渡る。

  思えば、精神分析医である父親、という設定は実に凝っている。なぜなら、人間の潜在意識(理性のコントロールがきかない場所)を扱うことに一番手馴れているのが「精神分析」医であるのに、彼自身が精神分析医を休業するという事態に追い込ませることによって、人間の理性的側面の脆さを浮き彫りにしているからだ。人間は、他者の感情(精神)を、客体化して分析的に扱うことができる。しかし、いざ自分の感情(精神)となると、たとえ精神分析医をもってしても、為すすべがない。人間の本質は、「主(体)客(体)未分の状態」なのだろう。その状態に、歴史的に蓄積されてきた人間の「知」(理性)が切り込む。しかし、その「知」は、主客未分という人間の本質と比べるとやはり見劣りしてしまう。この意味で、この映画は、きわめて西洋的な「精神分析」という「知」のあり方がすべてではないということを物語っているのかもしれない。少なくとも、それだけの深さを持った映画だ。

  ラストの演出は凝っていた。死んだ息子の元彼女が、すでに新しい男といちゃついているのを目撃し、父親はせつない気持ちになる。さらに、元彼女と男は、先へ(軽やかに)旅立っていってしまう。この場面には、重要な意味が込められていた。もし元彼女が死んだ息子に未練を残していたら、この映画はひどく後味の悪いものとなっただろう。元彼女が新たな自己構築をはじめ、先に旅立っていく姿は、息子の両親のこれから進むべき道を暗示している。あるいは、両親はそんな二人の姿を見て、ラストシーンの海岸で、はじめて笑顔を見せる。ラストシーンの色調の明るさ(鮮やかな砂の白・海の青・陽射し)は、たとえ観客を泣かせるとしても、決して暗い気持ちにはさせない。実に見事な演出に、なんともいえない涙が零れた。

75点



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