3 月 29

  映画評論家・野崎歓の言を借りれば、これは優れて「越境する映画」だ。フランス軍将校とドイツ軍将校が、それぞれ対等な、独自の重みをもった存在として描かれている。ドイツ人という<他者>を排除し、フランス人という<自己>を高みに立たせようとする意図は見られない。敵を、悪役に仕立て上げ物語から排除するのではなく、敵自身の物語をも尊重している。この意味で、「戦意高揚」か「戦争の悲惨さの啓蒙」か、どちらか一方を目指す普通の戦争映画とは異なった世界が、この映画の中には存在する。「味方」と「敵」、という二分法は、見事に越境されている。フランス軍将校とドイツ軍将校は友情を交わす。その男達のドラマは、ひたすら格好良い。彼らが見せる独特の男臭さには、憧憬の念を禁じえない。しかも、このような越境の物語が、1937年に描かれていることにはただ驚くしかない。

  一番好きなのは最後の場面だ。ドイツ軍に捕虜として捕まったフランス軍将校二人が、ドイツからの脱走を企てスイスとの国境にさしかかった場面。雪の積もった山並みをゆっくりとキャメラが捉え、そのまま二人へと落ちる。よくある山並みだ。二人は会話する。「向こうはたしかにスイスか?」「そうとも」「同じ景色だ」「国境なんて人間の作ったものさ。自然は関係ない」「何もかも終わるといい。エルザのところへ行く」「愛してるか」「そう思う」「もし国へ帰れたら、君は飛行隊 俺は歩兵隊。また戦争だ」「もう戦争はやめてほしいぜ。これを最後にな」「君の幻影さ」 このような映画の、このコンテクストだからこそ、見事な映像とキャメラアングルが加わって、「国境なんて人間の作ったものさ」という言葉は比類なき重みを持つ。映像と言葉と音声を同時に駆使できる「映画」というメディアの持つ、強力なメッセージ性を垣間見た。そして、そう、この映画自体が、文字どおり「越境」を目指す男達の物語だったのだと改めて気がついた。 (’02 2/23)

90点

3 月 29

  恋は突発的に訪れる。その恋が突発的に引き裂かれたとき、男はどう振る舞うのか。この映画は、徴兵や戦争が恋愛を圧倒的に引き裂く様を描く、数あまたある映画のひとつだ。恋愛は甘くもあり、痛くもある。日常の恋愛は、だいたいにおいて甘さが痛さに勝っている。だからこそ、ちまたでは恋愛信仰が激しく普及する。けれど、甘さと痛さは表裏。痛さは甘さの演出家である。「現代は、大恋愛が不可能になった時代だ」といった人がいた。現代は、自由な恋愛の時代。「つきあおっか?」のヒトコトが、空気のような軽さで宙に舞う。メールでだらだらと、軽妙な甘さがつながる。しかし、恋愛を切り裂くなにかを乗り越えてこそ、身も震えるような甘さが訪れるとすれば、少なくともショーであるべき映画には、「痛み」をあらわす装置が必要となる。恋人の事故、恋人の病気、恋人との身分差(ロミオとジュリエット)、恋人の徴兵―――。ところで、逆から考えることもできるだろう。つまり、恋愛という誰にでも身近な経験を用いることによって、社会に存在する痛みをよりリアルに描き出す、という方向だ。

  さて、この映画だ。主題は、恋愛というフィルターを通して描かれる、戦争(徴兵)の圧倒的暴力性なのか?それとも、戦争(徴兵)という道具を用いて描かれる、恋愛の痛さと甘さなのか?どうやら後者のようなのだが、この映画はそれほど面白く感じなかった。両方向からの描写を、絶妙なバランスで、しかも深くえぐり出した名作『恋々風塵』が頭から離れなかったからだ。これを観ることを強烈にオススメしたい。台湾の静かな穏やかな風景描写の中に浮かび上がる、愛した女に裏切られた男の痛みや狂気、そしてそのような狂気を強制した、もうひとつの狂気――戦争徴兵。『恋々風塵』ではこれらが見事に描かれている。戦争を利用した恋愛描写、恋愛を利用した戦争描写、どちらか一方に偏らない、ずっと中道を行くようなバランス感覚を保つということが、映画の生々しさ――リアルという感覚――に不可欠なのだろう。生々しい映画ほど、記憶に残るものもないのだから。 (’03 10/29)

69点

3 月 29

  この映画は恋の寓話、愛の神話、ひとつの実験だ。愛というものを彫刻刀で骨が出るまで削ってゆく。日常の恋・愛からいろんなものを1つずつ削ぎ落としていく。主人公の二人はまわりから隔絶され閉鎖された空間に閉じ込められている。家族の干渉、仕事の煩雑、友人の思惑、社会のまなざし――そういったものをまず削ぎ落とす。鈍い光が揺れ動く黒い湖で、はじまり、おわる物語。しかし、「削ぎ落とし」はそれにとどまらない。この映画が愛というものから削ぎ落とした本質は、「言葉」である。愛、そしてその描写がどれほど「言葉」に依存しているか考えてみたことがあるだろうか。愛のささやき、言葉が連想させるふくよかな甘さ。それらを一切削ぎ落としたとき、いったい何が残るのか。愛に関する言葉が一切登場しない、それゆえに非常に渇いた印象を与えるこの映画――『魚と寝る女』。

  言葉を削ぎ落とし残ったのは、肉体である。針を突き刺す痛みと、ペニスを突き刺す甘み。自殺しようと3本の釣り針を飲み込んだ男を、女は膣で癒す。閉塞的で執着的な女の愛から逃れようとする男を、女は膣に3本の釣り針を刺し痛みの叫びで引きとめようとする。根源的な肉体の力としての、愛=性=生。ふだん、愛というものは多くの言葉で飾られている。わたしたちは言葉で愛を彩りながら生きている。たしかに、人間はあらゆるものを言葉によって意味づけながら生きている。言葉が、あらゆるものの色彩を豊かにする。言葉がなければ人間ではない。しかし、いろいろなものを削ぎ落とした骨格、つまり根源的な力は、肉体にしか存在しない。肉体から力・強度が生まれる。根源的には、愛がもつ癒しはセックスという肉体的に突き刺す(突き抜ける)甘み、愛の喪失の痛みは釣り針を膣に突き刺す痛みに他ならない。

  神話のようなこの映画を観て、愛=性=生の持つ、肉体的な強さと暴力性にはっとした。言葉でお茶を濁すふだんの恋愛じゃなく、このように身を切り裂き血を溢れさせる以外に表現のしようがないほどの圧倒的な愛に囚われてみたいという願望が、たしかに自分の中に芽生えた。しかし、この映画の結末が示すように、それはおそらく破滅的なものなんだろう。だからこそ魅力的だ。ただこの映画のラストシーンは、ある意味、救済の物語として描かれていたのかもしれない。いろいろなものを削ぎ落とされた愛の骨格が、息を引き取ったのち、かつてないほど澄んだ静けさに包まれた湖の中に、光を浴びながら漂っていたのだから。 (’03 10/29)

90点

3 月 29

 8人の監督が、それぞれ10分の映画を撮る。いわば時間を問う映画のオムニバス集。「10分」という時間に各監督がこだわっているので、表題となっている。過去も未来も存在しない。あるのは「過去の現在」「現在」「未来の現在」だけだ。「過去の現在」は記憶であり、「現在」は注意であり、「未来の現在」は期待である(フォルカー・シュレンドルフ)。圧巻はゴダールだ。映像美がまず素晴らしい。これほど想像力をかき立てる映像を誰が撮ることができるだろう。彼は闇と沈黙にこだわる。結局、時はそこに沈む他はない。沈黙と闇のみが永遠である。しかし、彼は同時にこうも宣言する。「記憶の終焉」という小作品で、ナチスの強制収容所の死体を扱った映像にかぶせて、「時効はない」、と。かつて若く明るかった空が宵に沈み、星たちの間に失われたものが顔をのぞかせる「今夜」、そこは永遠である。しかし「現在」に生きる我々に、せめて残された倫理といえば、「時効はない」ということなのだろう。 (’04 11/23)

90点



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