4 月 1

 1984年のイギリス映画で、ニコニコ動画にもちゃんとある(再生数が少ない!もっとみんな観てくれ!)。事実にかなり忠実に作られていて、カンボジア大虐殺を世界に伝えるに当たってとても大事な役割を果たした作品。ぶっちゃけていえば、1.カンボジアに興味がある人は少ないだろう、2.カンボジアの歴史について書かれた本をわざわざ読もうとはしないだろう、3.せめてこの映画は観てください、ということになる。

 また、「カンボジアの歴史を伝える意義」という点をのぞいて、純粋に映画として評価しても、良く出来ている。これは名作でしょう。何よりもディト・プラン(昨日逝去してしまった…)役のハイン・S・ニョールの演技が素晴らしい。これほどまでに素晴らしい演技は滅多に観ることができない。彼は実際にポル・ポト政権下のカンボジアを生き抜いた医者で、この映画に出演するまで役者の経験は一切なかったのだが、過去の経歴を買われて主人公に抜擢された(その後アメリカの自宅前で殺されてしまった。なんという人生だろう…)。

 過去の胸の痛みをすべて吐き出すかのような、鬼気迫る演技だ。いやこれは演技ですらない。彼にとっては過去の追体験の意味が多分に含まれていたのだろう。(クメール・ルージュ役を見事にこなした少女の演技があまりにリアルだったので、撮影現場にて、彼は思わず「あいつは本物のクメール・ルージュだ!」と罵声を浴びせながら激怒してしまったという)。彼の演技に息苦しくなり、観ている途中、なんども再生を止めてしまった。

 ラストシーンの際にジョン・レノンの「imagine」が流れるのだが、この恥ずかしすぎるベタなチョイスに、全く疑問を感じず、涙をこぼしてしまった。そう、ひさびさに映画で泣いてしまったよ。もちろん、これは自分がカンボジアを旅した経験を持っているからかもしれないけれども。

 カンボジアの虐殺について、この映画から抜けている政治的な話については、次の引用部を読んで欲しい。この映画はカンボジアが経験した凄まじい殺戮を不十分にしか伝えていない。でも、それは仕方がないことだ。

 約八〇〇人の在日カンボジア人はほぼ例外なくこの映画を観たがり、現に少なくとも五〇人は観た。その半数余りは、家族の全部または一部を殺されたサハコー生活の体験者(難民)だ。彼らは私に、あれは本当にあったことです、ディト・ブランは私たちの分身です、と口々に語った。

 彼ら体験者は、サムディ医博と同様に、この映画がポ政権下の故国のすさまじい殺戮と文明破壊を、きわめて不十分にしか伝えていない、とつけ加える。せいぜい二〇~三〇%しか、と。私が多くの生存者から聞いたサハコー生活の実態は、確かに画面のそれの何倍もの恐怖と苦痛を感じさせる。もう一つ、この映画の欠陥をあげれば、それは赤色クメールとはそもそも何か、かくも異常な集団がなぜカンボジアに限って権力を握ったのかという、いわば背景説明が全く省かれていることだろう。そのために出来のいい反共エンターテインメントと受け取られる恐れがなきにしも非ずだし、ポ政権の出現を決定的に助けた巨大な外部要因が見失われることにもなる。巨大な外部要因とは中国共産党文革派だ。(参照

 NYT記者のシドニー・シャーバークは、1.怒りっぽい、2.独善的(傲慢)、3.でも正義という理念に燃えている、という特徴を持つ人物として描かれている。これってアメリカそのまんまだよね、と気がついた。シドニーとディト・プランの関係は、もしかしたら、アメリカとカンボジアの関係のメタファーになっているのかもしれない。そうであるならば、ラストシーンでのやりとり、

“Forgive me”とシドニー(アメリカ人)
“Nothing to forgive you, nothing”と笑って首を振るディト・プラン(カンボジア人)

を、どのように捉えたらよいのだろう。これは「甘い」描写だろうか?それとも「過去と決別して未来へ突き進んでいく人間の強さ」を示した描写だろうか?あなたはどんな感想を抱くのだろう?とにかく、自分は、泣いてしまった。

84点

3 月 29

 1977年の作品。これもニコニコ動画に転がっている。文句なしに大傑作の戦争映画といえるだろう。複雑な心情描写、リアリティのある戦闘シーン、そしてサム・ヘキンパーお得意の斬新な編集技術。3者が見事に協奏して映画を織り上げている。多くのハリウッド映画では決してなしえない、ドラマとアクションの奇跡的な両立。おそらく戦争映画史上3本の指に入るのではないか。

 注目したいのは、ラスト近辺のシーンだ。シュタイナー伍長(ジェームス・コバーン)は自分の小隊を裏切った兵士をひとまずぶち殺し、続いてシュトランスキー大尉も殺すかと思いきや、そうはしなかった。この絶妙なバランス感覚が、本作品を象徴している。もしシュタイナー伍長が裏切った兵士を殺害することを思いとどまったならば、「人命の尊さを訴えかける」という道徳心を慰撫する安っぽいハリウッド・ドラマ仕立てのエンディングになってしまっただろう。しかし同時に、もしシュタイナー伍長がシュトランスキー大尉を殺してしまったならば、「暴力が連鎖する救いのない現場としての戦争」というこれまた安っぽいエンディングになってしまったはずだ。

 暴力は時に連鎖するし、連鎖が途切れるときもある。裏切り者の下っ端の兵士がひとまずぶち殺されることによって人々はカタルシスを得る。続いて、暴力の連鎖が途切れた最後のシーンに、人々は胸を打たれ、「かっこいい」「名シーンだ」と感想を漏らす。しかし、サム・ヘキンパーは、笑い声を被せることによって人々の「感動」すらもあざ笑ってしまう。

 いかなる意味においても、戦場に「感動の物語」など存在しない。また同時に、「戦争はただ絶望的なものだ」というわけでもない。戦場すらひとつの「社会」なのだから、そこには、ときに暴力的でときに理性的な、気まぐれな人間の振るまいが存在するにすぎない。これは、美談と絶望の両者を抱えて「生きる」人間の姿を生々しく描いた映画なのだ。

 戦場は特別な場所じゃない。自分が生きている身近な社会に「シュタイナー伍長」や「シュトランスキー大尉」が潜んでいることは、誰もが認めるところだろう。しかし、戦場では人が死ぬ。圧倒的に、肉体としての人間が内蔵や「はらわた」を飛び散らせて死んでいく。その現実は、美しいとすらいえる戦闘シーンとして、見事に表現されている。

 それにしても、これほどまでに鳥肌の立つエンディング・ロールは観たことがない。音楽も素晴らしい。最後の一滴まで「はらわた」をじっくりと味わうべし。名作。

90点