3 月 29

 1957年。フェリーニの中ではおそらく一番観やすい映画。主演女優かつフェリーニの妻である、ジュリエッタ・マシーナの演技に尽きる。が、本当に、フェリーニのキリスト教に対するまなざしに感嘆させられる。というよりも、自分のキリスト教に対する理解は、フェリーニに負うところが大きい。この映画に関しては3つ。一つ、マリア様の慈悲が、救いなんだけれども狂気として描かれていて、この狂気が全体のトーンを支配しているからこそ、ラストシーンが際立つ。二つ、ラストシーンにおけるジュリエッタ・マシーナの顔演技。この顔演技は今まで観てきた映画の中でも5本指に入る。彼女があえて「カメラをのぞき込む(観客に視線を移す)」のにはドキっとした。あのおかげで、彼女の存在が、映画を観ている自分自身に接続された気がしたのだ。三つ、人間は、他者を求め、他者に裏切られ、絶望に陥り、他者の笑顔にまた自分も笑顔する。悟りの境地など要らないのだ。泣いて苦しんで笑って踊って、永遠にぐるぐる回り続けるからこそ、人生に陰影が生まれるのだ。

92点

3 月 29

 1970年。イタリアの巨匠、デ・シーカの想いが詰まった、語るのが馬鹿らしくなるほどの名作中の名作。戦後、ロシアでロケされた世界初の映画。究極の戦争映画にして、究極の恋愛映画。それにしても、デ・シーカの力量には驚かされる。焼夷弾が湖畔の静かな夜明け空を軽やかに舞う。なんと美しいことか、そして美しさが、どれだけの残酷さを刻みつけていることか。
 
 個人的に一番好きなシーンは、ソフィア・ローレンがマストロヤンニを探してロシアを電車で移動中に、ひまわり畑が揺れるシーン。あのカメラワークには鳥肌を通り越して胸が詰まりそうになった。デ・シーカの描く、リアリスティックかつ穏やかな諦念が滲み出た空間に、過去の――愛・諦め・切断・持続にまつわる――記憶が溶け出していくのを感じた。

97点

3 月 29

  キャメラワークの繊細さに降参。木にとまっている小鳥と、その向こうに在る空を、地上から見上げるように映す。どちらかに焦点を絞っているのではない。両方を対等に映している。そこには、小鳥の生命と、小鳥を生かしている神の存在が、同時に映しこまれている。かなたの空に、さやかには見えねども、神の存在が透けて見える。ディープ・フォーカスと長回しによって為せる業だ。背景も含めてすべてに焦点をあわせることで、すなわちあらかじめ意味を与えずに空間を提示することで、空間の意味が複数化する。観客の見方にゆだねられることになる。この映画で一番印象的だったのは空だ。この映画に映る空には、神がいると思えてならない。現実の空をキャメラは映しているのだが、画面の中の空は神聖味を帯びている。実際画面に映っているものだけではなく、その奥へ、空間・意味が拡がっていく映画。つまり、この映画は、空間を押し拡げていく、枠組みを突き破っていくものとしての映画だ。CGなどは一切ないこの時代。ただキャメラワークによって、それを見事に表現したこの映画に、興奮せざるをえなかった。(’02 2/23)

84点

3 月 29

  パルムドール受賞のこの作品。FILMEXで幸い観ることができた。多くの人が言いそうなことだが、とりあえずこの映画は、変に感傷的過ぎないのが良い。涙を狙いすぎないのが良い。だから自然と観客の涙は零れ落ちる。興味深いことに、やはり子供を持つ親のほうが、この映画に豊かな感情を喚起されるようだ。印象的な台詞。息子の死に関して夫と妻の会話。「もう後戻りはできないのよ」「その後戻りがしたいんだよ!」精神分析医という、人間の理性的側面を象徴するかのようなクールな大人が、まるで子供がダダをこねるかのようにわがまま(心の奥から湧き出る素直な叫び)を発することで、息子の死という出来事の衝撃が、鮮やかに観客の心に響き渡る。

  思えば、精神分析医である父親、という設定は実に凝っている。なぜなら、人間の潜在意識(理性のコントロールがきかない場所)を扱うことに一番手馴れているのが「精神分析」医であるのに、彼自身が精神分析医を休業するという事態に追い込ませることによって、人間の理性的側面の脆さを浮き彫りにしているからだ。人間は、他者の感情(精神)を、客体化して分析的に扱うことができる。しかし、いざ自分の感情(精神)となると、たとえ精神分析医をもってしても、為すすべがない。人間の本質は、「主(体)客(体)未分の状態」なのだろう。その状態に、歴史的に蓄積されてきた人間の「知」(理性)が切り込む。しかし、その「知」は、主客未分という人間の本質と比べるとやはり見劣りしてしまう。この意味で、この映画は、きわめて西洋的な「精神分析」という「知」のあり方がすべてではないということを物語っているのかもしれない。少なくとも、それだけの深さを持った映画だ。

  ラストの演出は凝っていた。死んだ息子の元彼女が、すでに新しい男といちゃついているのを目撃し、父親はせつない気持ちになる。さらに、元彼女と男は、先へ(軽やかに)旅立っていってしまう。この場面には、重要な意味が込められていた。もし元彼女が死んだ息子に未練を残していたら、この映画はひどく後味の悪いものとなっただろう。元彼女が新たな自己構築をはじめ、先に旅立っていく姿は、息子の両親のこれから進むべき道を暗示している。あるいは、両親はそんな二人の姿を見て、ラストシーンの海岸で、はじめて笑顔を見せる。ラストシーンの色調の明るさ(鮮やかな砂の白・海の青・陽射し)は、たとえ観客を泣かせるとしても、決して暗い気持ちにはさせない。実に見事な演出に、なんともいえない涙が零れた。

75点