9 月 2

 1966年のフランス映画。ニコニコ動画へのリンク作品解説。カルト映画としての人気も根強いが、この作品が「カルト」と呼ばれるならば、「カルト」とはなんと創造性に充ち満ちたジャンルなのだろう、とため息をつくしかない。もうこれは本当に戦慄すべき幻想文学的な戦争映画。

 第一次世界大戦末期、1918年10月、ドイツ軍は敗走していた。これは、解放を待つ北フランスの寒村でのできごとである。イギリス軍に追撃されたドイツ軍は、その田舎町から撤退する際に、いやがらせとして大型の時限爆弾を仕掛けていった。誰が町に潜入し、爆弾の時限装置の解除をするか。たまたまフランス語が出来るというだけの理由で通信兵(伝書鳩の飼育係)のプランビック二等兵がその命令を受ける。町に侵入したプランピックは、残留していたドイツ兵とはちわせをして精神病院に逃げ込む。そこでプランビックは「ハートのキング」と自称したことから、患者たちの王にまつりあげられる。

 町の人々が逃亡し、ドイツ兵が撤退して、もぬけのからになった町。患者たちはその町に繰り出し、思い思いの役を演じる。司祭を選ぶ者、軍人を選ぶ者、貴族を選ぶ者、娼館を営む者。戦争の跡が色濃く残る町の中で、リアリティのない奇妙な日常生活(の・ようなもの)がはじめられる。プランビックはその奇妙な日常生活に取り込まれていく。イギリス軍が町に進軍してくる。戻ってきたドイツ軍との間に白兵戦が行われ、双方が全滅。そして、さらに遅れてきたイギリス軍の本隊が町にはいろうとするところで、患者たちは、病院に戻るという決断をする。プランピックは、次の任務に向かう途中に逃亡兵となり、軍服を脱ぎ捨てて、素っ裸になって病院の門を叩く。精神病院の中と外とどちらが狂気に支配されているのか、という問いをつきつけて物語りは終わる。(参照

というあらすじ。戦争という現実世界に生きるよりは精神病的な幻想世界に生きる方がまだマシだということを描いた映画、つまり戦争を皮肉った喜劇的な反戦カルト映画、という見方が一番オーソドックスなのだろう。だが本当にそうなのだろうか?もし戦争が終結したとしても、やはり、観客である私は精神病院の門を叩きたくなってしまうのではないだろうか?

 現実世界で自分がコントロールできることなどたかが知れている。現実世界は、得体の知れない他者性に満ち溢れていて、人間はいつもいつも翻弄され続ける。どれだけ理想的な社会が実現したとしても、なお、人間は満たされない残余を抱えつづける。そのような残余を抱えたまま、現実世界で「私が私であること」を保とうとすれば、何らかの形で幻想世界を自らの内部に巣くわせるしかない。妄想族になるしかない。想像力豊かな物語の網を張り巡らせるしかない。「生きる」、ってそういうことだ。この映画は、人間が「生きる」様そのものを描いた映画といえるのではないだろうか?戦争は、あくまで、現実世界に立ち現れるアンコントローラブルな他者性を象徴する媒介項にすぎないのではないだろうか?人間は、食べ物と同じくらい幻想を必要としているのだ。ちなみに、わたしたちの普段の生活では、「愛」というものが一番利用しやすい幻想だといえるだろう。

 もっとも、幻想世界に長く浸ることは許されない。熱狂ののちに、諦念のような瞬間が訪れ、ふと醒めて、わたしたちはまた現実世界へ引き戻されてゆく。そろそろ宴は終わりだ、止めにしよう、というひらめきがやってくる。そのときの寂しさといったらない!夏が終わり、秋がやってくるような寂しさ。つまり、映画で描かれていたこの台詞が突きつけてくる、突如ぽっかりと穴が空く、思わずきょとんとしてしまうリアリティだ。

「たっぷり遊んだから帰ろう」
「王様も自分の世界に戻りな」

 とにかく、主人公の男が幻想の内部で心惹かれた女性(コロンバイン役:ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド)の美しさは必見だ。またひとつ、映画という幻想の内部に登場した女性に、つかの間の恋をしてしまった。強烈におすすめな映画です。

93点

3 月 31

 1969年の作品。これまた、ニコニコ動画に転がっている(レアだ!)。なんというか、こんなに甘酸っぱい極上の青春映画は滅多にないだろう。死体だらけだけれども。一度観ておいて損はない。カメラワークも抜群に素敵だ。もっとも、宮台真司のように「これを観て人生が変わった」と言い切るのはどうかと思うけれども。

 内容は残酷。しかし、映像・音楽・セリフは、つくづく、ため息が出るほど美しい。中村義則の同タイトルの詩にインスパイアされながら、若松監督は甘酸っぱい叙情詩を綴ったのだ。そう、これは詩だ。小説ではない。理解しようとしてはダメだ。身体と心をフィルムにまるごと預けるしかない(そんな体験が許されているのはとても幸せなことだ!)。寺山修司に代表されるような昭和日本の屈折した自意識を、ただただ詩的に味わいたい。

 青春時代。繊細な人ならば、一度はこのような感覚を持ったことがあるんじゃないか。人を殺したい。誰かに殺されたい。自殺したい。でも自殺する勇気はない。性欲が体を貫く。でも肉欲のあからさまな露呈に対しては嫌悪感を抱く。性欲がなにかとても大事なものを奪ってしまうかのような哀しさ。

 「二度目の処女」って、なんだろう。それはきっと、輪姦されてもまだ奪われていない、心の処女。血の中で求め合い、屋上から飛び降りて互いの「愛」を知る。映像としては出てこない、おそらく地上に飛び散ったであろう鮮血が、「二度目の処女」が奪われたことを示しているのだろう。その姿は、「二度目の処女」の意味を噛みしめながら、自分の脳裏に詩的に描くしかない。最後は、鑑賞者が、自分の心の一番繊細な部分(それがきっと「二度目の処女」)と向き合うことを余儀なくされるのだ。

 ”ただのセックスシーンでも、何だか冷ややかに見ていて、おそらく「ヌケ」ない。もの凄く、即物的な印象”とこちらのサイトに記されている。本当にそうだろうか。正直に告白すれば、自分はこの映画が描く無機質なエロスに、たまらなく欲情してしまった。ただただ、少年が羨ましかった。ゆけ、ゆけ、二度目の処女。

ゆけゆけ二度目の処女 
男が選んだ最高傑作 
ゆけゆけ二度目の処女 
遠回りでも明るい歩道を 
ゆけゆけ二度目の処女 
愛の喜び恋のニトログリセリンよ
ゆけゆけ二度目の処女 
あなたのマラソン長引かせる 
長引かせることのない空の部屋 
鶏ガラのように立ち上がる 
近親相姦の台所 
あなたの大きな下腹部 
あなたの自転車
ゆけゆけ二度目の処女 
あなたの大きな手のひらに 
黄色の夢となって乗りたい 
処女の泉のほうへ 
窓から窓から落ちてきた鳥を

82点

3 月 29

 この映画はニコニコ動画にも転がっているが、絶対に観た方が良い。命を賭けてオススメできる。

 それにしても、あまりに強烈な映画だ。「ドキュメンタリー」であるからこそ、人々はこの映画に打ちのめされる。戦時中、空腹に飢えかねた日本軍の兵士が下っ端の兵士を撃ち殺して人肉を喰らい命を繋いでいたという事実を、人肉を食した当事者がカメラの前ではじめて告白する場面――その緊迫感――は筆舌に尽くしがたい。この映画で一番「リアル」なものは、過去の罪を告白するか否かをめぐって責任を追及される登場人物たちの生々しい表情、狡さ、怒り、諦念などだ。これほどまでにリアルな駆け引きをおさめた映像は、滅多に存在しないだろう。告白者たちの表情がこの映画で一番印象に残っている。しかし、この映画は本当に事実をありのままにおさめた「ドキュメンタリー」なのだろうか?

 かつて蓮見重彦は、アッバス・キアロスタミの映画を評してこう述べた。「キアロスタミの映画は素朴な魅力にあふれているわけではない。(中略)子供の表情の驚くべき自然さを指摘する余裕があったら、その自然さを虚構としてキャメラで切り取って見せるというその演出の残酷さを想像してみるべきである」。どうやら、この映画もかなり「残酷」なものであったようだ。「奥崎謙三 神軍戦線異状なし」というブログに、いくつかの裏話が紹介されている。

 原によると「ゆきゆきて神軍」の人肉食やデッチあげ処刑の真相追及する件も、最初は奥崎はあまり乗り気ではなかったらしい。兎に角、自分のことを格好良く撮ってくれと、そういう態度がアリアリと感じられたそうだ。映画を利用して何かをやりかがっていたのは確かだ。最初は処刑事件の真相を追及するために、相手宅に行っても、奥崎が逃げるような言葉を与えてしまうので原は困り果てていた。(中略)そんな恥部を見せずに、「ゆきゆきて神軍」を反戦ドキュメンタリーに仕立てた原一男の編集技術は神業と言えよう。(参照

 奥崎自身も「ゆきゆきて神軍」のことをこういっている。「自分の生き方を認められる内容の映画を希望したが、原監督は戦争被害の実情を報告するドキュメンタリー映画を作りたかったようだ。そのため、私は被写体となることを二度三度やめようとしました」(参照

 奥崎に会いに来た人々は、天皇制への怨嗟を奥崎が吐露することを聞くことが目当てであるが、奥崎は「理想社会」の話を取り憑かれたかのように延々と続けるので、呆れて帰ってしまうらしいのである。奥崎も「この間も有名らしい人が来て私にいいましたよ。元兵士としての奥崎謙三は理解することを努力するが、理想社会だの世界の真理だのという奥崎は理解できない。私は別に理解されなくても構いませんがね」(中略)

 皇居パチンコ事件が起きたのが昭和四〇年代。この時期は反戦運動が盛んだった時期である。運動を盛り上げる材料として、奥崎は体よく作られた偶像に過ぎず、大衆は自己の都合の良いように奥崎という帰還兵を反戦のシンボルとして崇めていたに他ならない。つまり、調子よく踊らされていたのだ。(参照

 つまり、このドキュメンタリーに描かれている「戦争責任の追及という正義を追い求める暴力的な狂犬としての奥崎謙三」という姿は、かなりの程度作られた虚構であったということだ。手塚治虫はこの映画に登場する奥崎に対して「告発の姿勢がかなりカメラを意識して演技的に見える」と評したそうだが、なんのことはない、そもそも奥崎は「告発それ自体(戦争責任の追求)」を追い求めていたわけではないのだ。虚構を事実に偽装する、「ドキュメンタリー」と称される手法のぞっとするほどの残酷さ、それ自体がこの映画の醍醐味なのである。

 とはいえ、戦時下では相当数の兵士が人肉を喰らっていたし、時には味方の兵士を撃ち殺して食べていたという衝撃的な事実が、生々しい肉声とともに告白される場面をおさめた映像のリアリティは凄いし、なによりも、わたしたちはこの歴史的事実を真正面から凝視しなければならない。作られた虚構としての「戦争責任追及者・奥崎謙三」は、わたしたちの「戦争のはらわた」に対する凝視を引き出す、原一男監督がこしらえた超一流の装置だったのである。あらゆる意味で、凄まじい作品だ。日本人なら全員観るべきだ。

95点

3 月 29

 もともと『少女椿』は街頭で演じられていた紙芝居であって、その紙芝居を丸尾末広がマンガ化し、さらにそれを監督・原田浩がアニメ化したものがこの作品だそうな。詳しい解説はここらへん

 こんなに強度を持ったアニメがあるんだな、というのが率直な感想。日常と幻想、純潔と性的倒錯、地上と地下、秩序と混沌、正常と奇形、両者の世界を主人公の少女みどりは境界線を意識させない形でめくるめくように往来していく。端的で無駄のない構成、そしてJ・A・シーザーの隙のない音楽。非の打ち所がない。もしかしたら「難解だ」と感じるかもしれないけれど、むしろこれは「心の襞の奥行きそのものを確かめに行く探検アニメだ」と考えたらどうだろう。50分程度の作品。学校教育でこれを道徳か倫理の授業時間に生徒に見せて、それをもとに皆で語り合うことができるような社会であって欲しいなぁ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2062356

90点