9 月 3

 2006年カンヌグランプリ作品。ニコニコ動画のリンク作品解説。この映画では極限までセリフが切り詰められており、なおかつ音楽が一切流れない。音楽無き映画。Hedwigとは対極にある。

 日常世界に流れている時間と、映画の世界に流れている時間では、速度がまったく異なっている。わたしたちが「リアル」に感じる居心地の良い時の進行スピードは、日常世界と映画の世界で異なっている。日常世界のストーリー展開は緩やかだ。人間が一日に経験しうることなどたかが知れている。ところが映画だと、わずか90分足らずのうちにぐいぐいストーリーが展開していくのが通例だ。逆にいえば、ストーリーが素早く展開しないと、「映画らしくない(この映画に描かれている世界はリアルじゃない)」とわたしたちは感じてしまうのだ。音楽についても同様だ。映画のリテラシーを持っている人は、ある場面に相応しい音楽を求める。音楽の助けがないと、映画の世界に感情移入できないよう、わたしたちは飼い慣らされているのだ。ところがこの映画は観る者に試練を課す。なんという牛歩なストーリー展開。なんという平板な音楽無きカットの連続。あなたがしびれを切らすのが先か、それともこの映画が予定通り終わるのが先か。観客は、間違いなく作品とのバトルを強いられる。

 問題は、この映画の遅々としたストーリー展開と音楽無き演出が、(そうしなければ実現できなかった)新たな世界の肌触りを垣間見せてくれるのかどうか、というところにある。私は、この映画が、その点で成功したとは思わない。率直に言えば、映画を見終えて得たものよりも退屈さの方が上回ったということだ。もっとも、セックスに軸をおいて「戦争が狂わせる日常」を描くなど、きわめて現代流の戦争映画だという気はした。過剰な物語やドラマを排し、淡々としたセックスの描写をベースとして観客に「想像(映画の理解)」という行為を要求する新しいカタチ、「これまでには存在しなかった今だからこそ作れる戦争映画」の息吹をたしかに頬に感じたのだけれども、それを上回る退屈さを抱いてしまったのも事実なのだ。うーむ、もう一度観れば評価が変わるのだろうけれども、もう一度観るかなぁ?どうだろう。

71点

9 月 2

 1966年のフランス映画。ニコニコ動画へのリンク作品解説。カルト映画としての人気も根強いが、この作品が「カルト」と呼ばれるならば、「カルト」とはなんと創造性に充ち満ちたジャンルなのだろう、とため息をつくしかない。もうこれは本当に戦慄すべき幻想文学的な戦争映画。

 第一次世界大戦末期、1918年10月、ドイツ軍は敗走していた。これは、解放を待つ北フランスの寒村でのできごとである。イギリス軍に追撃されたドイツ軍は、その田舎町から撤退する際に、いやがらせとして大型の時限爆弾を仕掛けていった。誰が町に潜入し、爆弾の時限装置の解除をするか。たまたまフランス語が出来るというだけの理由で通信兵(伝書鳩の飼育係)のプランビック二等兵がその命令を受ける。町に侵入したプランピックは、残留していたドイツ兵とはちわせをして精神病院に逃げ込む。そこでプランビックは「ハートのキング」と自称したことから、患者たちの王にまつりあげられる。

 町の人々が逃亡し、ドイツ兵が撤退して、もぬけのからになった町。患者たちはその町に繰り出し、思い思いの役を演じる。司祭を選ぶ者、軍人を選ぶ者、貴族を選ぶ者、娼館を営む者。戦争の跡が色濃く残る町の中で、リアリティのない奇妙な日常生活(の・ようなもの)がはじめられる。プランビックはその奇妙な日常生活に取り込まれていく。イギリス軍が町に進軍してくる。戻ってきたドイツ軍との間に白兵戦が行われ、双方が全滅。そして、さらに遅れてきたイギリス軍の本隊が町にはいろうとするところで、患者たちは、病院に戻るという決断をする。プランピックは、次の任務に向かう途中に逃亡兵となり、軍服を脱ぎ捨てて、素っ裸になって病院の門を叩く。精神病院の中と外とどちらが狂気に支配されているのか、という問いをつきつけて物語りは終わる。(参照

というあらすじ。戦争という現実世界に生きるよりは精神病的な幻想世界に生きる方がまだマシだということを描いた映画、つまり戦争を皮肉った喜劇的な反戦カルト映画、という見方が一番オーソドックスなのだろう。だが本当にそうなのだろうか?もし戦争が終結したとしても、やはり、観客である私は精神病院の門を叩きたくなってしまうのではないだろうか?

 現実世界で自分がコントロールできることなどたかが知れている。現実世界は、得体の知れない他者性に満ち溢れていて、人間はいつもいつも翻弄され続ける。どれだけ理想的な社会が実現したとしても、なお、人間は満たされない残余を抱えつづける。そのような残余を抱えたまま、現実世界で「私が私であること」を保とうとすれば、何らかの形で幻想世界を自らの内部に巣くわせるしかない。妄想族になるしかない。想像力豊かな物語の網を張り巡らせるしかない。「生きる」、ってそういうことだ。この映画は、人間が「生きる」様そのものを描いた映画といえるのではないだろうか?戦争は、あくまで、現実世界に立ち現れるアンコントローラブルな他者性を象徴する媒介項にすぎないのではないだろうか?人間は、食べ物と同じくらい幻想を必要としているのだ。ちなみに、わたしたちの普段の生活では、「愛」というものが一番利用しやすい幻想だといえるだろう。

 もっとも、幻想世界に長く浸ることは許されない。熱狂ののちに、諦念のような瞬間が訪れ、ふと醒めて、わたしたちはまた現実世界へ引き戻されてゆく。そろそろ宴は終わりだ、止めにしよう、というひらめきがやってくる。そのときの寂しさといったらない!夏が終わり、秋がやってくるような寂しさ。つまり、映画で描かれていたこの台詞が突きつけてくる、突如ぽっかりと穴が空く、思わずきょとんとしてしまうリアリティだ。

「たっぷり遊んだから帰ろう」
「王様も自分の世界に戻りな」

 とにかく、主人公の男が幻想の内部で心惹かれた女性(コロンバイン役:ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド)の美しさは必見だ。またひとつ、映画という幻想の内部に登場した女性に、つかの間の恋をしてしまった。強烈におすすめな映画です。

93点

9 月 2

 1986年の作品、ニコニコ動画へのリンク。ベトナム戦争モノ。作品解説

 これは救いのない戦争映画だ。「救いのない」というのは、ため息しか出ない、ベタに憂鬱になる以外に方法がない、ということだ。たとえば『プライベート・ライアン』は、胃が縮み上がるような肉体感覚としての戦争を追体験をするというスペクタル的な楽しさを持ち合わせている。憂鬱、というよりは興奮する映画だ。たとえば『遠すぎた橋』は、幾何学的に洗練された構図によって、戦争そのものが美的な段階にまで昇華されている。憂鬱、というよりはむしろ感嘆する映画だ。また、多くの反戦映画では、徹底的に絶望的な戦争の状況が描かれることによって、観客はむしろ救われているといえるだろう。「悲惨すぎる」という感覚は、容易に、「戦争は絶対にダメだ!」「許せない!」という憤りや倫理的使命感に転化する。それは間違いなく観客にとってある種の「救い」なのだ。憂鬱感を、前向きな未来に向けてのエネルギーに変えることができるのだから。「絶望している自分」に酔うことができるのだから(もちろんそれは決して悪いことではないのだけれども)。ところがこの『プラトーン』では、メタに逃げる要素が一切残されていない。もう、興奮することもできず、怒ることもできず、泣くこともできず、美的洗練に感嘆することもできず、ただただ憂鬱なのだ。観やすいハリウッド映画として「ベタな憂鬱そのものとしての戦争」のリアリティを鮮やかに切り取った傑作。少々古めかしい部分があるとはいえ、この映画は、一度観ておく価値があるだろう。

85点

4 月 30

 1977年の作品。ニコニコ動画のリンク。第2次世界大戦中の「マーケットガーデン作戦」(連合国軍vsドイツ軍)を扱ったもの。もうこれは文句なくいまだに戦争映画のトップ3に君臨する名作中の名作だと思う。観やすい、戦闘シーンで興奮できる、音楽が抜群に素敵、美しい絵の数々、そしてラストシーンが深く余韻を引く。

 おそらく、評価される戦争映画ってのは、得てして、以下の条件を備えている。

1.「国のために戦う」という大義名分を無条件に信じ込まない、シニカルで醒めた主人公が登場する
2.迫力がありリアリティーあふれる戦闘シーンが描かれている
3.<味方=善/敵=悪>という二分法ではなく、両者の人間性がきちんと描写されている
4.戦争のむなしさを暗示させるような台詞ないしやりとりでラストシーンが締めくくられる
5.芸術的(幾何学的)に美しいカメラの構図が散りばめられている

 この映画は上記の5条件を見事に満たしている。本当に質の高い映画なんだけれども、典型的な「良い戦争映画」に忠実すぎるので、若干、優等生臭く感じられるかもしれない(自分はそう感じた)。つまり、自分の予想の範囲を超えた現実の生々しさ(生の躍動)には欠けるものの、これ以上はありえないというほどの優等生的戦争映画なのです。そうそう、抜群の音楽、格好良すぎるラストシーン(エンディングロール)、幾何学的に美しい構図(とくに落下傘部隊が飛行機からパラシュートを広げながら地上に舞い降りていくシーンの美しさ;CGを使わず実録だからこそ表現できる空気感)にも注目してみてくださいね。

94点

4 月 1

 1984年のイギリス映画で、ニコニコ動画にもちゃんとある(再生数が少ない!もっとみんな観てくれ!)。事実にかなり忠実に作られていて、カンボジア大虐殺を世界に伝えるに当たってとても大事な役割を果たした作品。ぶっちゃけていえば、1.カンボジアに興味がある人は少ないだろう、2.カンボジアの歴史について書かれた本をわざわざ読もうとはしないだろう、3.せめてこの映画は観てください、ということになる。

 また、「カンボジアの歴史を伝える意義」という点をのぞいて、純粋に映画として評価しても、良く出来ている。これは名作でしょう。何よりもディト・プラン(昨日逝去してしまった…)役のハイン・S・ニョールの演技が素晴らしい。これほどまでに素晴らしい演技は滅多に観ることができない。彼は実際にポル・ポト政権下のカンボジアを生き抜いた医者で、この映画に出演するまで役者の経験は一切なかったのだが、過去の経歴を買われて主人公に抜擢された(その後アメリカの自宅前で殺されてしまった。なんという人生だろう…)。

 過去の胸の痛みをすべて吐き出すかのような、鬼気迫る演技だ。いやこれは演技ですらない。彼にとっては過去の追体験の意味が多分に含まれていたのだろう。(クメール・ルージュ役を見事にこなした少女の演技があまりにリアルだったので、撮影現場にて、彼は思わず「あいつは本物のクメール・ルージュだ!」と罵声を浴びせながら激怒してしまったという)。彼の演技に息苦しくなり、観ている途中、なんども再生を止めてしまった。

 ラストシーンの際にジョン・レノンの「imagine」が流れるのだが、この恥ずかしすぎるベタなチョイスに、全く疑問を感じず、涙をこぼしてしまった。そう、ひさびさに映画で泣いてしまったよ。もちろん、これは自分がカンボジアを旅した経験を持っているからかもしれないけれども。

 カンボジアの虐殺について、この映画から抜けている政治的な話については、次の引用部を読んで欲しい。この映画はカンボジアが経験した凄まじい殺戮を不十分にしか伝えていない。でも、それは仕方がないことだ。

 約八〇〇人の在日カンボジア人はほぼ例外なくこの映画を観たがり、現に少なくとも五〇人は観た。その半数余りは、家族の全部または一部を殺されたサハコー生活の体験者(難民)だ。彼らは私に、あれは本当にあったことです、ディト・ブランは私たちの分身です、と口々に語った。

 彼ら体験者は、サムディ医博と同様に、この映画がポ政権下の故国のすさまじい殺戮と文明破壊を、きわめて不十分にしか伝えていない、とつけ加える。せいぜい二〇~三〇%しか、と。私が多くの生存者から聞いたサハコー生活の実態は、確かに画面のそれの何倍もの恐怖と苦痛を感じさせる。もう一つ、この映画の欠陥をあげれば、それは赤色クメールとはそもそも何か、かくも異常な集団がなぜカンボジアに限って権力を握ったのかという、いわば背景説明が全く省かれていることだろう。そのために出来のいい反共エンターテインメントと受け取られる恐れがなきにしも非ずだし、ポ政権の出現を決定的に助けた巨大な外部要因が見失われることにもなる。巨大な外部要因とは中国共産党文革派だ。(参照

 NYT記者のシドニー・シャーバークは、1.怒りっぽい、2.独善的(傲慢)、3.でも正義という理念に燃えている、という特徴を持つ人物として描かれている。これってアメリカそのまんまだよね、と気がついた。シドニーとディト・プランの関係は、もしかしたら、アメリカとカンボジアの関係のメタファーになっているのかもしれない。そうであるならば、ラストシーンでのやりとり、

“Forgive me”とシドニー(アメリカ人)
“Nothing to forgive you, nothing”と笑って首を振るディト・プラン(カンボジア人)

を、どのように捉えたらよいのだろう。これは「甘い」描写だろうか?それとも「過去と決別して未来へ突き進んでいく人間の強さ」を示した描写だろうか?あなたはどんな感想を抱くのだろう?とにかく、自分は、泣いてしまった。

84点

3 月 31

 2001年に製作された、おなじみのこの作品。ニコニコ動画にも転がっている。米国防総省に撮影協力してもらう見返りとして、米軍の不利になるいくつかのカットを削除したという経緯も含めて、「アメリカ軍のプロパガンダ映画だ!」と一部で糾弾されているようだけれども、自分は比較的評価している。

 まず、この映画は9割近く戦闘シーンで占められているため、戦闘シーン(「アクション」)のリアリティが評価を大きく左右する。アクションシーンの面白さについては、文句なし。ブラックホーク・ダウンの戦闘シーンには、かなり人を惹きつけるものがある。では、「ドラマ」(物語筋)についてはどうだろう。この映画で描かれているドラマのプロットを一言で要約すれば、「戦場で一緒に戦っている仲間を見捨てることはできない。だから戦うんだ」ということになる。もしこの映画が誰かに感傷を与えるとすれば、「仲間意識」に関するものだろう。では、「仲間を見捨てることができない」という気持ちを米軍側の視点から一方的に描くと、「プロパガンダ」になってしまうのだろうか?何気なく検索をかけていたら、2chにこのような書き込みを見つけた。

77 :専守防衛さん :02/12/07 22:43
 ああいう状況に追い込まれればだれでも仲間意識は発揮すると思うよ。日本じゃ実戦を経験している人は居ないけれど、災害時などは命令が無くてもどこからともなく集まってきたりするし、レインジャーやデルタが訓練で能力を磨いているとしてもそれは兵士としての戦闘能力であって人間としての性格は万国共通だと思う。この映画で余りよく描かれていないソマリアの人たちだって兵士個人のレベルではやはり仲間や家族のために戦っているんだよね。 (参照

 これは説得力がある意見じゃないだろうか。戦場で兵士たちのモチベーションを維持させる理由にはいくつかの階層性が存在するのだろう。おおざっぱに考えれば、

レベル1:身近に衣食住や訓練をともにしてきた(同じ部隊に所属する)仲間たちのため
レベル2:同胞・国のため
レベル3:正義などの大義名分のため

とでも言えるだろうか。本作品の描写のメインはアクションシーンだったのだから、「ドラマ」に関して、レベル1の「仲間意識」のみを(米軍側の見方から)一面的にしか扱えないとしても、仕方ない気がするのだ。そもそも仲間意識とは、一方的なものなのだから。

 あるひとつの物事(出来事)は、さまざまなレベルから語ることができる。たとえば、目の前にガラスで出来たコップが置いてあるとする。そのコップについて2人で語り合うとする。このとき、コップのデザインについて語ることも、コップの物理学的構造について語ることもできる。わたしたちがコップのデザインについて語るときの言語レベルと、コップの分子構造を物理学的に語るときの言語レベルは、異なっている。しかし、どちらか一方の語り方が正しいということはなく、両者は共存できる(ともに正しい)。大事なのは、語りのレベルを一致させることだ。もし相手がデザインについて語っているならば、わたしもデザインについて語らねばならない。「このコップのデザインは美しいよね?」という問いかけに対して、「そもそもガラスはケイ酸塩で構成されていて…」と応じるならば、会話が無意味なものになってしまう。逆に、もし科学者がコップの分子構造について語っているならば、わたしも分子構造のレベルで返事をしなければならない。

 つまり、レベル1として描かれた仲間意識の物語に対して、レベル3の観点から「プロパガンダだ!」と批判するのは、なにか違う気がするのだ。

 結論。この映画は(レベル3の「大義名分」という意味において)「戦争は正義だ」「米軍だけが正義を体現している」などと語ってはいない(と自分は感じた)。あくまで戦闘シーンがメインな映画だ。そして、戦闘シーンでは、レベル1の「仲間意識」が一方的な形で作動したとしても、非難はできない(誰も仲間が死ぬ姿を見たくない)。だから、「プロパガンダだ!」という批判は妥当なものではないと思う。

 とはいえ、人間の精神の奥深さに触れる描写は一切出てこないため、「めちゃくちゃ面白い映画だ!」というわけにはいかない。あくまでアクション映画だ。アクション性とドラマ性を高い次元で両立させた『戦争のはらわた』などに比べると、評価は大きく劣ってしまう。また、「ソマリア民兵の描き方がいくらなんでもナイーブすぎるよね!」という感想を少なからず抱いてしまう。よって、次の点数を付けたい。

71点

3 月 29

 1977年の作品。これもニコニコ動画に転がっている。文句なしに大傑作の戦争映画といえるだろう。複雑な心情描写、リアリティのある戦闘シーン、そしてサム・ヘキンパーお得意の斬新な編集技術。3者が見事に協奏して映画を織り上げている。多くのハリウッド映画では決してなしえない、ドラマとアクションの奇跡的な両立。おそらく戦争映画史上3本の指に入るのではないか。

 注目したいのは、ラスト近辺のシーンだ。シュタイナー伍長(ジェームス・コバーン)は自分の小隊を裏切った兵士をひとまずぶち殺し、続いてシュトランスキー大尉も殺すかと思いきや、そうはしなかった。この絶妙なバランス感覚が、本作品を象徴している。もしシュタイナー伍長が裏切った兵士を殺害することを思いとどまったならば、「人命の尊さを訴えかける」という道徳心を慰撫する安っぽいハリウッド・ドラマ仕立てのエンディングになってしまっただろう。しかし同時に、もしシュタイナー伍長がシュトランスキー大尉を殺してしまったならば、「暴力が連鎖する救いのない現場としての戦争」というこれまた安っぽいエンディングになってしまったはずだ。

 暴力は時に連鎖するし、連鎖が途切れるときもある。裏切り者の下っ端の兵士がひとまずぶち殺されることによって人々はカタルシスを得る。続いて、暴力の連鎖が途切れた最後のシーンに、人々は胸を打たれ、「かっこいい」「名シーンだ」と感想を漏らす。しかし、サム・ヘキンパーは、笑い声を被せることによって人々の「感動」すらもあざ笑ってしまう。

 いかなる意味においても、戦場に「感動の物語」など存在しない。また同時に、「戦争はただ絶望的なものだ」というわけでもない。戦場すらひとつの「社会」なのだから、そこには、ときに暴力的でときに理性的な、気まぐれな人間の振るまいが存在するにすぎない。これは、美談と絶望の両者を抱えて「生きる」人間の姿を生々しく描いた映画なのだ。

 戦場は特別な場所じゃない。自分が生きている身近な社会に「シュタイナー伍長」や「シュトランスキー大尉」が潜んでいることは、誰もが認めるところだろう。しかし、戦場では人が死ぬ。圧倒的に、肉体としての人間が内蔵や「はらわた」を飛び散らせて死んでいく。その現実は、美しいとすらいえる戦闘シーンとして、見事に表現されている。

 それにしても、これほどまでに鳥肌の立つエンディング・ロールは観たことがない。音楽も素晴らしい。最後の一滴まで「はらわた」をじっくりと味わうべし。名作。

90点

3 月 29

 この映画はニコニコ動画にも転がっているが、絶対に観た方が良い。命を賭けてオススメできる。

 それにしても、あまりに強烈な映画だ。「ドキュメンタリー」であるからこそ、人々はこの映画に打ちのめされる。戦時中、空腹に飢えかねた日本軍の兵士が下っ端の兵士を撃ち殺して人肉を喰らい命を繋いでいたという事実を、人肉を食した当事者がカメラの前ではじめて告白する場面――その緊迫感――は筆舌に尽くしがたい。この映画で一番「リアル」なものは、過去の罪を告白するか否かをめぐって責任を追及される登場人物たちの生々しい表情、狡さ、怒り、諦念などだ。これほどまでにリアルな駆け引きをおさめた映像は、滅多に存在しないだろう。告白者たちの表情がこの映画で一番印象に残っている。しかし、この映画は本当に事実をありのままにおさめた「ドキュメンタリー」なのだろうか?

 かつて蓮見重彦は、アッバス・キアロスタミの映画を評してこう述べた。「キアロスタミの映画は素朴な魅力にあふれているわけではない。(中略)子供の表情の驚くべき自然さを指摘する余裕があったら、その自然さを虚構としてキャメラで切り取って見せるというその演出の残酷さを想像してみるべきである」。どうやら、この映画もかなり「残酷」なものであったようだ。「奥崎謙三 神軍戦線異状なし」というブログに、いくつかの裏話が紹介されている。

 原によると「ゆきゆきて神軍」の人肉食やデッチあげ処刑の真相追及する件も、最初は奥崎はあまり乗り気ではなかったらしい。兎に角、自分のことを格好良く撮ってくれと、そういう態度がアリアリと感じられたそうだ。映画を利用して何かをやりかがっていたのは確かだ。最初は処刑事件の真相を追及するために、相手宅に行っても、奥崎が逃げるような言葉を与えてしまうので原は困り果てていた。(中略)そんな恥部を見せずに、「ゆきゆきて神軍」を反戦ドキュメンタリーに仕立てた原一男の編集技術は神業と言えよう。(参照

 奥崎自身も「ゆきゆきて神軍」のことをこういっている。「自分の生き方を認められる内容の映画を希望したが、原監督は戦争被害の実情を報告するドキュメンタリー映画を作りたかったようだ。そのため、私は被写体となることを二度三度やめようとしました」(参照

 奥崎に会いに来た人々は、天皇制への怨嗟を奥崎が吐露することを聞くことが目当てであるが、奥崎は「理想社会」の話を取り憑かれたかのように延々と続けるので、呆れて帰ってしまうらしいのである。奥崎も「この間も有名らしい人が来て私にいいましたよ。元兵士としての奥崎謙三は理解することを努力するが、理想社会だの世界の真理だのという奥崎は理解できない。私は別に理解されなくても構いませんがね」(中略)

 皇居パチンコ事件が起きたのが昭和四〇年代。この時期は反戦運動が盛んだった時期である。運動を盛り上げる材料として、奥崎は体よく作られた偶像に過ぎず、大衆は自己の都合の良いように奥崎という帰還兵を反戦のシンボルとして崇めていたに他ならない。つまり、調子よく踊らされていたのだ。(参照

 つまり、このドキュメンタリーに描かれている「戦争責任の追及という正義を追い求める暴力的な狂犬としての奥崎謙三」という姿は、かなりの程度作られた虚構であったということだ。手塚治虫はこの映画に登場する奥崎に対して「告発の姿勢がかなりカメラを意識して演技的に見える」と評したそうだが、なんのことはない、そもそも奥崎は「告発それ自体(戦争責任の追求)」を追い求めていたわけではないのだ。虚構を事実に偽装する、「ドキュメンタリー」と称される手法のぞっとするほどの残酷さ、それ自体がこの映画の醍醐味なのである。

 とはいえ、戦時下では相当数の兵士が人肉を喰らっていたし、時には味方の兵士を撃ち殺して食べていたという衝撃的な事実が、生々しい肉声とともに告白される場面をおさめた映像のリアリティは凄いし、なによりも、わたしたちはこの歴史的事実を真正面から凝視しなければならない。作られた虚構としての「戦争責任追及者・奥崎謙三」は、わたしたちの「戦争のはらわた」に対する凝視を引き出す、原一男監督がこしらえた超一流の装置だったのである。あらゆる意味で、凄まじい作品だ。日本人なら全員観るべきだ。

95点

3 月 29

 圧倒されてしまって言葉が出てこないので、再度観てレビューしようと思う。人物関係が錯綜していておおまかなあらすじすらきちんと追えなかった。それにしても、音楽が素晴らしいね。ジジェクのこの映画に対する解説はこちら。でも、ジジェク的ではない見方を紡ぎ上げなければならないと思う。

81点

3 月 29

 映画全体の物語筋はハリウッド臭くてイマイチなんだけど、やはり冒頭の戦闘シーンの映像と音響が圧倒的だと思う。戦争の肉体的な恐怖をここまで体感できる映画はないのでは?つまり、頭で理解する戦争、胸を痛める悲惨な物語としての戦争ではなく、びゅんびゅん飛び交う銃弾や砲弾に恐怖し手に汗を握り、人命が虫けらみたいに海の藻屑と消え、内蔵がぶちゅぶちゅ飛び出してしまうような、そんな【戦慄的な身体感覚としての戦争】をまざまざと体験させてくれる点が素晴らしい。自分が次の瞬間には肉の塊になっているかもしれないという戦争の現実を味わせてくれる作品。大金を投じなければ、このリアル感は表現できない。

75点



« Previous Entries