9 月 3

 2006年カンヌグランプリ作品。ニコニコ動画のリンク作品解説。この映画では極限までセリフが切り詰められており、なおかつ音楽が一切流れない。音楽無き映画。Hedwigとは対極にある。

 日常世界に流れている時間と、映画の世界に流れている時間では、速度がまったく異なっている。わたしたちが「リアル」に感じる居心地の良い時の進行スピードは、日常世界と映画の世界で異なっている。日常世界のストーリー展開は緩やかだ。人間が一日に経験しうることなどたかが知れている。ところが映画だと、わずか90分足らずのうちにぐいぐいストーリーが展開していくのが通例だ。逆にいえば、ストーリーが素早く展開しないと、「映画らしくない(この映画に描かれている世界はリアルじゃない)」とわたしたちは感じてしまうのだ。音楽についても同様だ。映画のリテラシーを持っている人は、ある場面に相応しい音楽を求める。音楽の助けがないと、映画の世界に感情移入できないよう、わたしたちは飼い慣らされているのだ。ところがこの映画は観る者に試練を課す。なんという牛歩なストーリー展開。なんという平板な音楽無きカットの連続。あなたがしびれを切らすのが先か、それともこの映画が予定通り終わるのが先か。観客は、間違いなく作品とのバトルを強いられる。

 問題は、この映画の遅々としたストーリー展開と音楽無き演出が、(そうしなければ実現できなかった)新たな世界の肌触りを垣間見せてくれるのかどうか、というところにある。私は、この映画が、その点で成功したとは思わない。率直に言えば、映画を見終えて得たものよりも退屈さの方が上回ったということだ。もっとも、セックスに軸をおいて「戦争が狂わせる日常」を描くなど、きわめて現代流の戦争映画だという気はした。過剰な物語やドラマを排し、淡々としたセックスの描写をベースとして観客に「想像(映画の理解)」という行為を要求する新しいカタチ、「これまでには存在しなかった今だからこそ作れる戦争映画」の息吹をたしかに頬に感じたのだけれども、それを上回る退屈さを抱いてしまったのも事実なのだ。うーむ、もう一度観れば評価が変わるのだろうけれども、もう一度観るかなぁ?どうだろう。

71点

9 月 3

 この映画についてはあらためて語ることはないのだけれども、ニコニコに転がっているので、未見の人は必ず観た方が良いよというサジェスチョンまでに記事を起こしておく。以前書いたものを転用すれば、「男/女の境界線」および「西側世界/東側世界の境界線」を、ロックンロールの力で越境して、人間の存在そのものを「裸体」という場所で問う希有な作品、ということになる。そもそも、「映画ってあまり面白くないし好きじゃない…」と零すサブカルLoverな人に自分が満全の自信を持ってオススメできる映画(これを観せてダメだったらもうその人に映画を紹介するのは止めよう、という諦めがつく最終防衛ライン的な映画)は3本しかない。1.ロシュフォールの恋人たち。2.シェルブールの雨傘。そしてこの、3.Hedwig and the Angry Inch。これらはどれも、とにかくもう圧倒的にキャッチーで観る者をぐいぐい惹き込む強度を持っていながら、なおかつスルメのような七色の味わいを湛えた映画だ。これら三作に共通するのは、すべてミュージカル映画であるということ。映画において音楽が果たしている力を思い知るがいい。万人にあまねくオススメ!

95点

3 月 29

 1977年の作品。これもニコニコ動画に転がっている。文句なしに大傑作の戦争映画といえるだろう。複雑な心情描写、リアリティのある戦闘シーン、そしてサム・ヘキンパーお得意の斬新な編集技術。3者が見事に協奏して映画を織り上げている。多くのハリウッド映画では決してなしえない、ドラマとアクションの奇跡的な両立。おそらく戦争映画史上3本の指に入るのではないか。

 注目したいのは、ラスト近辺のシーンだ。シュタイナー伍長(ジェームス・コバーン)は自分の小隊を裏切った兵士をひとまずぶち殺し、続いてシュトランスキー大尉も殺すかと思いきや、そうはしなかった。この絶妙なバランス感覚が、本作品を象徴している。もしシュタイナー伍長が裏切った兵士を殺害することを思いとどまったならば、「人命の尊さを訴えかける」という道徳心を慰撫する安っぽいハリウッド・ドラマ仕立てのエンディングになってしまっただろう。しかし同時に、もしシュタイナー伍長がシュトランスキー大尉を殺してしまったならば、「暴力が連鎖する救いのない現場としての戦争」というこれまた安っぽいエンディングになってしまったはずだ。

 暴力は時に連鎖するし、連鎖が途切れるときもある。裏切り者の下っ端の兵士がひとまずぶち殺されることによって人々はカタルシスを得る。続いて、暴力の連鎖が途切れた最後のシーンに、人々は胸を打たれ、「かっこいい」「名シーンだ」と感想を漏らす。しかし、サム・ヘキンパーは、笑い声を被せることによって人々の「感動」すらもあざ笑ってしまう。

 いかなる意味においても、戦場に「感動の物語」など存在しない。また同時に、「戦争はただ絶望的なものだ」というわけでもない。戦場すらひとつの「社会」なのだから、そこには、ときに暴力的でときに理性的な、気まぐれな人間の振るまいが存在するにすぎない。これは、美談と絶望の両者を抱えて「生きる」人間の姿を生々しく描いた映画なのだ。

 戦場は特別な場所じゃない。自分が生きている身近な社会に「シュタイナー伍長」や「シュトランスキー大尉」が潜んでいることは、誰もが認めるところだろう。しかし、戦場では人が死ぬ。圧倒的に、肉体としての人間が内蔵や「はらわた」を飛び散らせて死んでいく。その現実は、美しいとすらいえる戦闘シーンとして、見事に表現されている。

 それにしても、これほどまでに鳥肌の立つエンディング・ロールは観たことがない。音楽も素晴らしい。最後の一滴まで「はらわた」をじっくりと味わうべし。名作。

90点

3 月 29

 1980年。「終電車」というタイトルは、ナチス占領下のフランスで、夜間外出禁止令が下されていたため人々は「終電車」に殺到した、というところから付けられている。もうね、これも本当に圧倒的な作品で、ある意味トリュフォーのNo1作品と言って良いかもしれない。3つだけ。一つ、歳を重ねてもあくまで美しいカトリーヌ・ドヌーブ。美しさといっても、「圧倒的な存在感の宿った美しさ」がドヌーブの特徴。アイドルの美しさとは根本的に違う。もうただ、自分が捉えられてしまう。ロックオンされてしまう。二つ、設定の巧みさが、極めて深い陰影を映画全体に与えていること。ドヌーブと、演劇の舞台上で恋人役を演じる若い男優、および(ユダヤ人のため)その舞台の地下に身を潜める演出家である夫。どちらにもドヌーブは惹かれている。揺れ動く。その力学が凄い。どちらに対しても、完全に恋心が満たされることがない。<現実/演劇>および<地上/地下>という二つの境界線が、ブレーキになっている。その境界線は互いに影響を与えながら、揺らぎ、ドヌーブの美しさの存在感はさらに増してゆく。
 
 ラストシーンの撮り方も、映画史上に残るものといえるだろう。もうご覧になった方には注意して観て欲しいのだが、はじめは病院が現実のものとして撮られている(背景に見える向かいのビルで実際に人が煙草を吸っている)が、ワンカットの切り返しで、その背景が舞台上の描かれた大道具にすり替わっている。映画だからこそできるウルトラCの演出法だが、これは、<現実/演劇>の境界線のあいまいさを、トリュフォー自身が巧みに描いたものとして再解釈できるのではないだろうか。戦争もきちっと描かれている。文句なし。圧倒的名作。

94点

3 月 29

 1966年。もうこれは文句のつけようがないミュージカル映画。よってコメントなし。ドヌーブも相変わらず凄まじく美しい。鑑賞後、史上最強にハッピーになる映画。これを観ないのはただの馬鹿、ってか勿体ない‥ ひとつだけ言うならば、冒頭で、みんなが踊っている広場をパンフォーカスしている状態から、徐々にマンションの一室へとカメラがズームインするシーン。痺れた。コテコテでベタなストーリーを、これだけ華麗に、かつ幸せ感充ち満ちて撮れるのはすごい。街角の踊りは、軽やかに出会って、離れて、異なる人と重なって、またどこかで出会うものだ。カメラワークが、その交差のさまを過剰なまでに表象している。人がたまたま交差して、別れて、またどこかで出会う。カメラは途切れることなく、軽やかに、まるでミュージカルのダンス・ステップのように、追う対象を切り替えてゆく。街角だからこそすれちがう、すれちがうからこそ高まる恋のドキドキと切なさ。ああ、幸せだ。

95点

3 月 29

 2001年。フランスの巨匠ガレル監督の本作は、「P・ガレル監督自身が、60年代末に運命的な出会いを果たしたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌姫・ニコとの愛の日々をモノクローム映像で綴る」という自叙伝的な映画。とにかく仕掛けが凄い。まずこの映画は、「映画を撮る男女」を描いている。つまりこの映画の中に、映画の主人公たちが撮るもうひとつの映画が混入する。この映画の主人公は、ヘロイン根絶を訴える映画を撮ろうとする。彼は街角で出会った女性と恋に落ち、彼女をヒロイン役として映画を撮りはじめる。なぜ監督役の主人公がヘロイン根絶を訴える映画を撮ろうと思ったのかといえば、彼が昔付き合っていた女性が、かつてヘロインで死の世界に落ちていったからだった。つまり、ガレル監督は(この映画の中の)監督役の主人公に自分を託しているのだが、それと同時に、主人公本人が、現在のガレル監督の立ち位置になっているのだ。
 
 また、映画の中では、結局、ヘロイン根絶を訴える映画でヒロインを演じている女性が、実際にヘロインに手を染めて皮肉な結末を迎える。ここにガレル監督の身を切るような「ヘロインに対する恨みと畏怖」を見た。つまり、ヘロイン根絶を訴える映画を撮っている人間がヘロインに負けるという皮肉な結末を描くことによって、破滅と恍惚が表裏一体となったヘロインの魔力を、まざまざと観客に見せつけるのだ。主人公の監督役は現在のガレル監督の立ち位置であるのだが、彼がヘロインに恋人=ヒロインを奪われるを描くことによって、逆にガレル監督のヘロインに対する切なる執念を見せつける結果となった。まずは現実と虚構を巧みに操作して鮮やかにメッセージを伝えるその手法に拍手を贈りたい。でも、その巧みな操作が緻密であるがゆえに、逆に、ガレル監督の若かりし日々への複雑な想いと執念が滲み出ていて、思わず言葉を無くしてしまうのだ。とにかく観てください。

82点

3 月 29

 1970年。イタリアの巨匠、デ・シーカの想いが詰まった、語るのが馬鹿らしくなるほどの名作中の名作。戦後、ロシアでロケされた世界初の映画。究極の戦争映画にして、究極の恋愛映画。それにしても、デ・シーカの力量には驚かされる。焼夷弾が湖畔の静かな夜明け空を軽やかに舞う。なんと美しいことか、そして美しさが、どれだけの残酷さを刻みつけていることか。
 
 個人的に一番好きなシーンは、ソフィア・ローレンがマストロヤンニを探してロシアを電車で移動中に、ひまわり畑が揺れるシーン。あのカメラワークには鳥肌を通り越して胸が詰まりそうになった。デ・シーカの描く、リアリスティックかつ穏やかな諦念が滲み出た空間に、過去の――愛・諦め・切断・持続にまつわる――記憶が溶け出していくのを感じた。

97点

3 月 29

 2005年の作品。打算や狡さや諦めに囲われているからこそ、愛は甘美になる。ごまかしの無い愛なんて、ひたすら残酷で痛くて目を覆うしかない。その「痛みを抱えて生きる」さまを象徴的に描いた映画。
 
 性/愛は与えるものであると同時に、「惜しみなく奪う」もの((C)有島武郎)。だから愛は痛い。ひたすら痛い。人間の痛みが全面的に滲み出る。男から女、女から男への愛。はたまた、親から子、子から親への愛。友人から友人への愛。すべて、何か与えると同時に、何かを奪い去ってしまう。自分の中からも何かが損なわれてゆく。愛の痛みが連鎖したとき、言葉も失うような事態が進行する。ラストシーンがあまりに素敵で、涙を流した。愛の痛みの連鎖によって、もう取り返しのつかないところまで来てしまった、父と娘。沼地にはまり、アクセルを踏んでも進まない、娘の運転する車。父は、自らの愛の爪痕を償うために、先へ先へと進んでゆく。わたしたちが失いゆく誰かを追いかけるとき、おそらく、アクセルを踏み続けるけれども前進しない車なのだろう。エンジンの煙だけがもうもうと舞い上がる。アクセルを離せば静寂が訪れる。鳥肌が立った。

87点

3 月 29

 1988年。観てから随分だったので、感想は書けないが、映画好きならこの監督を確実にチェックしておくべし。美しくて濃いんだよ、ばかやろう。

83点

3 月 29

 ミュージカル映画。つまり、せりふはすべて歌。愛した彼が戦争に出かけ、待てど暮らせど還ってこない。登場するもう一人のイイ男。もはや交差しなくなった二人の道。彼はやがて還ってくる。が、それぞれがお互いを知らずに生きている。クリスマスも近い頃、ふたりは雪の中、ふたたび冷たい吐息を交わす――。 musicを担当するのはかのミシェル・ルグラン。って書くまでもなく超有名な作品ですが、なぜ今まで観なかったのかと悔やむほどのクオリティ。カトリック・ドヌーブの想像を絶する美しさに股間が立つのも忘れ、陽気さと哀愁がせめぎあう最高なルグラン・ミュージックに心躍らせていれば、画面にはなんとも鮮やかなTechnicolorの色遣い。とにかく観やすい。また、とにかく「面白い」。評論するのも馬鹿らしいほど、映画好きにも、ハリウッド映画しか観ない人にも、おすすめ。これを超えるミュージカル映画はあり得るのか?これを観て損したと感じるヤツがいるのか?

95点



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