3 月 29

 2005年の作品。打算や狡さや諦めに囲われているからこそ、愛は甘美になる。ごまかしの無い愛なんて、ひたすら残酷で痛くて目を覆うしかない。その「痛みを抱えて生きる」さまを象徴的に描いた映画。
 
 性/愛は与えるものであると同時に、「惜しみなく奪う」もの((C)有島武郎)。だから愛は痛い。ひたすら痛い。人間の痛みが全面的に滲み出る。男から女、女から男への愛。はたまた、親から子、子から親への愛。友人から友人への愛。すべて、何か与えると同時に、何かを奪い去ってしまう。自分の中からも何かが損なわれてゆく。愛の痛みが連鎖したとき、言葉も失うような事態が進行する。ラストシーンがあまりに素敵で、涙を流した。愛の痛みの連鎖によって、もう取り返しのつかないところまで来てしまった、父と娘。沼地にはまり、アクセルを踏んでも進まない、娘の運転する車。父は、自らの愛の爪痕を償うために、先へ先へと進んでゆく。わたしたちが失いゆく誰かを追いかけるとき、おそらく、アクセルを踏み続けるけれども前進しない車なのだろう。エンジンの煙だけがもうもうと舞い上がる。アクセルを離せば静寂が訪れる。鳥肌が立った。

87点

3 月 29

  この映画は恋の寓話、愛の神話、ひとつの実験だ。愛というものを彫刻刀で骨が出るまで削ってゆく。日常の恋・愛からいろんなものを1つずつ削ぎ落としていく。主人公の二人はまわりから隔絶され閉鎖された空間に閉じ込められている。家族の干渉、仕事の煩雑、友人の思惑、社会のまなざし――そういったものをまず削ぎ落とす。鈍い光が揺れ動く黒い湖で、はじまり、おわる物語。しかし、「削ぎ落とし」はそれにとどまらない。この映画が愛というものから削ぎ落とした本質は、「言葉」である。愛、そしてその描写がどれほど「言葉」に依存しているか考えてみたことがあるだろうか。愛のささやき、言葉が連想させるふくよかな甘さ。それらを一切削ぎ落としたとき、いったい何が残るのか。愛に関する言葉が一切登場しない、それゆえに非常に渇いた印象を与えるこの映画――『魚と寝る女』。

  言葉を削ぎ落とし残ったのは、肉体である。針を突き刺す痛みと、ペニスを突き刺す甘み。自殺しようと3本の釣り針を飲み込んだ男を、女は膣で癒す。閉塞的で執着的な女の愛から逃れようとする男を、女は膣に3本の釣り針を刺し痛みの叫びで引きとめようとする。根源的な肉体の力としての、愛=性=生。ふだん、愛というものは多くの言葉で飾られている。わたしたちは言葉で愛を彩りながら生きている。たしかに、人間はあらゆるものを言葉によって意味づけながら生きている。言葉が、あらゆるものの色彩を豊かにする。言葉がなければ人間ではない。しかし、いろいろなものを削ぎ落とした骨格、つまり根源的な力は、肉体にしか存在しない。肉体から力・強度が生まれる。根源的には、愛がもつ癒しはセックスという肉体的に突き刺す(突き抜ける)甘み、愛の喪失の痛みは釣り針を膣に突き刺す痛みに他ならない。

  神話のようなこの映画を観て、愛=性=生の持つ、肉体的な強さと暴力性にはっとした。言葉でお茶を濁すふだんの恋愛じゃなく、このように身を切り裂き血を溢れさせる以外に表現のしようがないほどの圧倒的な愛に囚われてみたいという願望が、たしかに自分の中に芽生えた。しかし、この映画の結末が示すように、それはおそらく破滅的なものなんだろう。だからこそ魅力的だ。ただこの映画のラストシーンは、ある意味、救済の物語として描かれていたのかもしれない。いろいろなものを削ぎ落とされた愛の骨格が、息を引き取ったのち、かつてないほど澄んだ静けさに包まれた湖の中に、光を浴びながら漂っていたのだから。 (’03 10/29)

90点